2013年12月01日
実録真田一族
来年早々に本を出すことになり、その最後の仕上げに追われている。真田一族の話である。中でも大坂夏の陣で戦死した幸村は一番の人気者である。
真田幸村と十勇士の英雄化の歴史を振り返ってみると、大坂夏の陣による豊臣滅亡から間もない寛文12年(1672年)に軍記物『難波戦記』が書かれている。まだ人々のなかに大坂の陣の記憶が鮮明にある時代である。これは、豊臣の残党の間で語り継がれていた真田幸村・大助親子の奮闘を膨らませた形で成立したものではないかと思われる。不勉強で、この『難波戦記』は見ていないが、元禄期の成立である実録小説『真田三代記』のもとになったものである。実録小説とは厳めしい名であるが、「講釈師見てきたような嘘をいい」の類いで、事実をもとに作者が勝手な創作を加えた読み物ということであるらしい。現代でも「実録仁義なき戦い」などというが如くである。『真田三代記』は土橋治重氏の現代語訳で読みやすい形で出版されている。
この『真田三代記』では猿飛佐助と望月六郎をのぞく真田十勇士のうち8人が登場している。土橋氏の解説によると、豊臣家のために戦った真田幸村の話が、当時許されるはずもなく、写本を通して読み継がれたものであるという。
大坂夏の陣から90年近くの歳月が流れ、太平の時代が続き、元禄の爛熟した文化に人々は酔っていた時代であった。平和にはなったのだが、身分は固定化され、言論をはじめとするさまざまな自由が束縛されるなか、一種のフラストレーションとして真田幸村の活躍を楽しんだのではないかというのが「真田三代記」がよく読まれた原因ではないかと思う。
人気者である真田幸村だが、真田一族の系譜を見ても、どこにも幸村の名はない。真田昌幸の二男に信繁の名があるが、この信繁こそが幸村なのである。それでは、なぜ信繁は幸村といわれるようになったのか。信繁存命中から幸村を名乗っていたのではないようだ。後世の物語の中で、徳川相手に縦横の活躍をする武将に真田幸村という名前がつけられたのである。それがいつの間にか幸村という名前の方が有名になり、松代藩で編まれた歴史書にまで「幸村君伝記」などと幸村があたかも正式な名前であるかのように書かれている。いずれにしても、今の私たちには幸村の方が通りがいい。
その後明治になると、「真田もの」は解禁となるわけだが、その名を広めたのは何といっても講談の流行であった。真田幸村は庶民のヒーローとなり、忍者猿飛佐助も生まれた。
明治44年(1911)大阪の立川文明堂から立川文庫が発刊される。立川文庫は、講談師玉田玉秀斎らが中心となって巷で演じられていた講談を読み物として再編集したもので、その1冊として「知謀 真田幸村」が出版された。それに続き、「真田三勇士忍術名人猿飛佐助」・「真田三勇士由利鎌之助」・「真田三勇士忍術名人霧隠才蔵」などが出され、真田十勇士のシリーズは立川文庫のドル箱となるのである。
この忍術を駆使する真田の活躍は、当時の新しいメディアである活動写真の目のつけるところとなり、猿飛佐助などが活躍する作品が次々と作られた。
「真田三代記」や「立川文庫」に描かれる真田幸村は、豊臣秀頼の信頼厚い参謀として大坂の陣を指揮し、自らも勇敢にも家康の本陣に斬り込むといった無類の活躍を見せるのだが、実際に真田幸村というのはそんなスーパーマンのような武将であったのだろうか。いくつかの幸村の書いた書状や一緒に戦った武将たちの証言というのが残されているのだが、それを丹念に見ていくとまったく別の幸村像が浮かんでくるのである。
真田幸村と十勇士の英雄化の歴史を振り返ってみると、大坂夏の陣による豊臣滅亡から間もない寛文12年(1672年)に軍記物『難波戦記』が書かれている。まだ人々のなかに大坂の陣の記憶が鮮明にある時代である。これは、豊臣の残党の間で語り継がれていた真田幸村・大助親子の奮闘を膨らませた形で成立したものではないかと思われる。不勉強で、この『難波戦記』は見ていないが、元禄期の成立である実録小説『真田三代記』のもとになったものである。実録小説とは厳めしい名であるが、「講釈師見てきたような嘘をいい」の類いで、事実をもとに作者が勝手な創作を加えた読み物ということであるらしい。現代でも「実録仁義なき戦い」などというが如くである。『真田三代記』は土橋治重氏の現代語訳で読みやすい形で出版されている。
この『真田三代記』では猿飛佐助と望月六郎をのぞく真田十勇士のうち8人が登場している。土橋氏の解説によると、豊臣家のために戦った真田幸村の話が、当時許されるはずもなく、写本を通して読み継がれたものであるという。
大坂夏の陣から90年近くの歳月が流れ、太平の時代が続き、元禄の爛熟した文化に人々は酔っていた時代であった。平和にはなったのだが、身分は固定化され、言論をはじめとするさまざまな自由が束縛されるなか、一種のフラストレーションとして真田幸村の活躍を楽しんだのではないかというのが「真田三代記」がよく読まれた原因ではないかと思う。
人気者である真田幸村だが、真田一族の系譜を見ても、どこにも幸村の名はない。真田昌幸の二男に信繁の名があるが、この信繁こそが幸村なのである。それでは、なぜ信繁は幸村といわれるようになったのか。信繁存命中から幸村を名乗っていたのではないようだ。後世の物語の中で、徳川相手に縦横の活躍をする武将に真田幸村という名前がつけられたのである。それがいつの間にか幸村という名前の方が有名になり、松代藩で編まれた歴史書にまで「幸村君伝記」などと幸村があたかも正式な名前であるかのように書かれている。いずれにしても、今の私たちには幸村の方が通りがいい。
その後明治になると、「真田もの」は解禁となるわけだが、その名を広めたのは何といっても講談の流行であった。真田幸村は庶民のヒーローとなり、忍者猿飛佐助も生まれた。
明治44年(1911)大阪の立川文明堂から立川文庫が発刊される。立川文庫は、講談師玉田玉秀斎らが中心となって巷で演じられていた講談を読み物として再編集したもので、その1冊として「知謀 真田幸村」が出版された。それに続き、「真田三勇士忍術名人猿飛佐助」・「真田三勇士由利鎌之助」・「真田三勇士忍術名人霧隠才蔵」などが出され、真田十勇士のシリーズは立川文庫のドル箱となるのである。
この忍術を駆使する真田の活躍は、当時の新しいメディアである活動写真の目のつけるところとなり、猿飛佐助などが活躍する作品が次々と作られた。
「真田三代記」や「立川文庫」に描かれる真田幸村は、豊臣秀頼の信頼厚い参謀として大坂の陣を指揮し、自らも勇敢にも家康の本陣に斬り込むといった無類の活躍を見せるのだが、実際に真田幸村というのはそんなスーパーマンのような武将であったのだろうか。いくつかの幸村の書いた書状や一緒に戦った武将たちの証言というのが残されているのだが、それを丹念に見ていくとまったく別の幸村像が浮かんでくるのである。
Posted by 南宜堂 at 15:05│Comments(0)