2008年11月30日

高遠長藤文庫

「東京方面から杖突峠を抜け、杖突街道をゆっくりドライブすると実感できると思いますが、このあたりは少しまわりとは違う時間が流れているようです。
ここにいらしたら、自分の体内時計を、何年あるいは何十年か前に巻き戻してみてください。そしてそのまま針の動きを止めてしまってもいいかも知れません。」(高遠長藤文庫のホームページから)

 私は長野から訪ねたので都会ほどの落差はなかったのですが、それでもここは少しゆっくりめの時間が流れていることを感じました。

 欲しい本を手に入れるためには、かつてであれば近くの本屋さんに行って探すというのが普通の方法でした。本屋さんにない場合は、店に頼んで注文してもらうのですが、本が届くまでにほぼ2週間はかかりました。
 しかし今やネットで検索すれば、またたく間に新刊・古書とりまぜてリストアップされ、注文をクリックすれば、最短で明日には手に入れることができるようになりました。
 そういったオンラインの書籍検索のサイトがいくつかできていて、そこに参加しているオンライン古本屋というのが無数にあります。そんなオンライン古本屋のことは北尾トロ「ぼくはオンライン古本屋のおやじさん」(ちくま文庫)を読めばよくわかります。
 この本に登場する「書肆月影」もやはりオンラインの古書店で、月影の店主大塚さんが高遠長藤文庫の店長さんでした。そんなオンライン古本屋さんがバーチャルを離れて店を構えたわけです。しかも高遠に。
 オンラインでの検索は確かに便利です。家から一歩も出ないで必要な本を入手することができます。
 しかし、本の好きな人というのは必要に応じて買うという人だけではありません。自分の気に入った本を書棚から探すのが楽しいという人、本の背表紙を見るのが楽しいという人とか、本に囲まれた空間に自分を置いておきたいという人もいます。
 町の古本屋さんが細々ながらも命脈を保っていられるのは、そんな客に支えられてなのでしょう。

 ここ長藤文庫は町の古本屋さんよりもっと不利な場所にあります。はたして信州の山奥に客が来るのだろうか、そんなことを思ったのですが初対面の店長さんに儲かってますかとも聞けません。まあ、1年以上経っても店を閉めないのは何とかやっていけているということでしょうか。  

Posted by 南宜堂 at 21:19Comments(0)本の町

2008年11月28日

高遠へ

 前々から訪ねたいと思っていた古書店があって、伊那高遠に足を伸ばしました。雨模様の天気はどうなるかと思っていましたが、幸いにも雪に変わることはなく、ノーマルタイヤで行ってきました。
■高遠本の家
 高遠の町の中バス停のすぐ前にありました。もともとは何人かの東京の古書店が杖突街道沿いに「本の店」としてやっていたものが、後述の「長藤文庫」と別れて、「本の家」はこちらに移転したようです。
 城下町高遠のイメージとは異なり、明るくモダンな店内です。品揃えはどちらかというとサブカルチャー的なものが多く、高遠ー城下町ー歴史ものを想像してくると裏切られます。
 今日はシーズン最後の連休も終わった後で店内は閑散としていました。


高遠の町です。

■長藤文庫
 こちらは高遠から茅野へ抜ける杖突街道沿いにあります。地名からとって「おさふじぶんこ」と読むのだそうです。もともとあった「本の家」がふたつに別れて、高遠に古書店が2軒できたことは訪れるものにとって楽しみが2倍になるわけですから歓迎すべきでしょう。
 寡黙な男性が一人店番をしておられ、ちょっととっつきにくそうな印象でしたが話してみると気さくな方で、大塚さんという東京の古書店「書肆月影」の店主でありました。帰ってから気がついて本をひっくり返したのですが、北尾トロ「ぼくはオンライン古書店のおやじさん」に登場する方でした。
 ああいう時間の流れが止まったような場所で、古い民家を改造して、昔の本を置く、これは古いもの好きにはうらやましいほどの贅沢だと思います。もちろんここだけの売り上げで維持できるものではないでしょうからオンライン古書店の売り上げが頼りだと思います。
 物質的な意味での贅沢をしなれば、どんなところでも生活していけるというのは、ある意味でネット社会のありがたさかもしれません。
 写真はホームページより拝借しました。

  

Posted by 南宜堂 at 23:55Comments(0)本の町

2008年11月27日

私は貝になりたい

 ここに登場する清水豊松の遺書は実際に処刑された人のものなのだそうですが、ストーリーは脚本を担当した橋本忍の創作です。
 橋本忍といえば黒澤明監督の一連の映画をはじめ、「砂の器」「ゼロの焦点」などの脚本を担当している、日本映画の良心を代表する脚本家であるといっても過言ではありません。今回のリメーク版も彼のシナリオを使っているということですから、その出来映えは想像できます。
 しかし、前にも書きましたように、この映画が家族の愛の物語だなどという風にダイジェストされてしまうと、そうなんだろうかという思いにとらえられてしまうのです。
 確かに、この映画の主人公清水豊松は、戦争という魔物に妻や子らとの間を引き裂かれて戦地に行き、せっかく復員してきたと思ったら、今度は戦時中の捕虜虐殺の罪でc級戦犯とされ、死刑に処せられます、
 戦争は愛し合う家族の絆を引き裂く残酷なものだという主張はこの映画のバックボーンです。
 しかし一方で、前に書いた上原良治のように家族のため、愛するもののために特攻隊員として死んでいくのだということもあったのです。
 戦争のために家族を奪われるということと、愛するもののために戦うのだということ、ちょっと矛盾することのようですが、あの時代確かにあったのです。  

Posted by 南宜堂 at 21:00Comments(0)

2008年11月26日

家族の愛

 太平洋戦争では、BC級戦犯とされた人々も多く処刑されました。このBC級戦犯とは何かということを「ウィキペディア」で調べたのですが、もうひとつ明解ではない。次に記す「赤旗」の解説がわかりやすいと思います。
「日本が受諾したポツダム宣言第10項は「吾等の俘虜(ふりょ)を虐待せる者を含む一切の戦争犯罪人に対しては厳重なる処罰を加えらるべし」と明記しています。

 この条項にもとづく極東国際軍事裁判所条例は戦争犯罪をAからCに類型化しました。

 A項は平和に対する罪、B項は通例の戦争犯罪、C項は人道に対する罪についての規定で、各項該当者を各級戦犯と呼んでいます。」(しんぶん赤旗のホームページより)

 テレビ草創期のころ、「私は貝になりたい」というフランキー堺主演のドラマが放映されて大きな反響を呼びました。調べてみると、最初の放映が1958年になっています。
 その頃はまだ、戦争を体験した人々が多く社会の一線におり、自分たちの戦争体験と重ね合わせて画面に見入ったのだと思います。私なども、フランキー堺のモノローグ、いっそ深海の貝にでもなりたいという場面はいまだに脳裏に焼き付いています。
 その「私は貝になりたい」が再び映画化されて公開されました。何でいま戦争犯罪人とされた男のドラマが映画になるのかという素朴な感想はあるのですが、宣伝によると夫婦の絆とか家族愛ということに力点が置かれているのだとか。それでいい夫婦の日に公開したということのようです。
 50年前、テレビで見た「私は貝になりたい」の感想は戦争の怖さでした。それは恐怖といってもいいようなものでした。家族愛という視点はなかったと思います。私が年齢を重ねたということもありますが、当時はあたりまえであった家族の姿が、2008年になると「家族の愛を描く」とわざわざ断らなければならないほどに希薄でよくわからないものになっているのかもしれません。  

Posted by 南宜堂 at 00:10Comments(0)

2008年11月22日

冬の花火

 19日は長野市岩石町にある西宮神社の宵えびすでした。そして23日には犀川の河川敷でえびす講の花火大会が行われます。
 毎年この頃になると善光寺平には初雪が舞い、人々は冬ごもりの準備に入ったものでした。しかし、昨今は野沢菜や大根を漬ける家は少なくなり、冬の準備といったらタイヤの履き替えくらいしか思い浮かばなくなってきました。
 19日の夜の西宮神社周辺の賑わいは、今でも昔と変わりないようですが、中央通りの商店の大売り出しはすっかり影をひそめてしまいました。11月ともなると周辺の農家は稲の収穫も終わり、冬のものを買う客が大勢長野の町に訪れてきました。私の子供の頃はすでにそんな賑わいはピークを過ぎていたようですが、それでも中央通り沿いの商店は舗道に露店を設け、東町の商店も遅くまで開いておりました。
 花火大会の方は昔は確か20日の夜に行われていたのではないかと思います。今ではもうえびす講とは独立したような格好で、長野の冬の風物詩となっております。
 この花火大会のルーツをたずねれば、明治32年(1899)「長野市大煙火会」なるものが結成され、そこが中心となって行われるようになりました。打ち上げられた場所は、鶴賀遊廓に近い高土手、現在の柳町中学の近くでした。以前に紹介した赤地蔵ののあたりです。
 その後大正5年からは、長野商業会議所の一組織である長野商工懇話会の主催するところとなったのです。大正6年11月22日付の「信濃毎日新聞」に、二尺玉の打ち上げを見るために集まった大勢の人でにぎわう長野の町のようすがに載っております。
「(前略)午頃からは善光寺にお参りして順次城山に上って煙火を見た。煙火を見るには城山が最も好い場所でおでん屋や蜜柑林檎屋などが露店を張って何れも大繁盛で人々は日当たり好い場や芝の上に真黒に集まって何か食ひ乍ら見物して居た。田町辺から遊郭田圃へ掛けては三時の二尺玉を見んとて押掛ける群衆で一方ならぬ混雑を呈した。(後略)」
 この頃の花火大会は昼の部、夜の部とあったようで、ここで記事になっているのは昼の花火を見る人々です。夜は夜で遊廓に繰り出す客と、花火見物の人で大にぎわいであったようです。同じ「信濃毎日新聞」の記事に、二尺玉の中に二百羽の紙の烏が込められていたことが記されています。紙の烏はゆったりと空にただよい、それを一生懸命に子どもたちが追いかけたといいます。これは袋物といって、雁皮紙で作られた風船で、戦前の花火大会にはよく使われたものでした。戦後になって風船を追った子どもが事故にでもあってはいけないという理由で禁止になったものです。
 当時はまだ色鮮やかな打ち上げ花火の技術が未熟であったことが昼の花火を盛んにしていたようです。それと打ち上げの時の体を震わす大音響も昼の花火の魅力でした。今はカラーテレビの普及によるせいか、花火を視覚で楽しもうという人がほとんどですが、昔の人は花火の迫力を五感で感じ取ろうとしたようです。  

Posted by 南宜堂 at 20:50Comments(0)