2009年09月30日

新選組血風録

 『新選組血風録』は、昭和37年5月から12月まで「小説中央公論」連載された新選組をテーマにした短編集である。『燃えよ剣』とは違って新選組の興亡を描いたものというよりは、隊士たちのエピソードをその人間性とともに描いたもので、配列も時の流れにこだわってはいない。「油小路の決闘」が冒頭にきていることでもそれはわかる。
 これを原作にしてテレビ映画「新選組血風録」もつくられた。司馬遼太郎はテレビ化には乗り気ではなかったという。しかし、挨拶に訪れた栗塚旭を見て、自分の思い描いていた土方のイメージにあまりに似通っていたので思わず承諾してしまったという逸話が残されている。
 テレビ映画「新選組血風録」は、昭和40年NET(現在のテレビ朝日)系で放映された。私にその記憶がないのは地方では放映されなかったためであろう。
 脚本は結束信二、配役は、土方歳三:栗塚旭 沖田総司:島田順司 近藤勇:舟橋元 山南敬助:早川研吉 斎藤一:左右田一平 山崎烝:坂口祐三郎 永倉新八:有川正治 原田左之助:徳大寺伸 井上源三郎:北村英三 藤堂平助:国一太郎
 同時代では見ることが出来なかったが、幾度となく再放送が行われ、ビデオやDVDも発売されている。先頃も時代劇の専門チャンネルで放映されていた。
 確かに原作者の司馬遼太郎が危惧していたように、脚本の結束信二は相当にアレンジを加えた。人間を描くといっても、小説とテレビ映画ではその描き方が異なる。映像は内面の描写が苦手である。
 主演の栗塚旭は、私のインタビューに答えて語っている。「司馬先生の原作がすばらしかったし、それを脚本の結束信二先生がより人間的に愛を込めて書いてくださったから、僕ら役者も乗せられてすばらしい作品になったのだと思っています。先生はよくおっしゃっていました。『決して時代劇を撮っているのだとは思うな。いちばん現代的な問題を取り上げているのだ』だから、気持ちとしては、同時代の劇を作っているのだという思いが強かったですね。」(『英雄の時代 新選組』)
 出版社の編集者であった私は、栗塚さんに会うために京都に行き、哲学の道にあった栗塚さんの経営する喫茶「若王子」でお話をうかがったのだと思う。このインタビューからもわかるように、結束信二が作ろうとしていた新選組は、司馬遼太郎の原作からは微妙に離れたものだった   

Posted by 南宜堂 at 00:11Comments(4)幕末・維新

2009年09月28日

戊辰戦争とは

 いま手もとに『戊辰の役120年記念 司馬遼太郎先生講演会記録集」と題した小冊子がある。先日福島県白河市を訪れた際にいただいたものだ。
 一読して思ったことは、非常に苦労して話されているなと、話しにくそうにしているのが伝わってくるようであった。この記録集はほとんど編集というものがなされておらず、話したままを文字にしたという感じで読みにくいものであったのだが、それがまた講演者の苦心を伝えていた。ただ、誤字脱字が多く、たとえば一粒万倍とするところを一流満杯などとまったく意味をなさないような漢字に変換されていて、これは講演者に失礼なのではないかと思ったりもしたのである。
 この講演録では、司馬遼太郎は戊辰戦争で東北諸藩が負けたのは、鉄砲の差だったんだという風に言っている。つまり、東北は火縄銃に毛の生えたような銃であったのに対して、薩摩や長州は元込め式の銃を使っており、そこに殺傷能力の違いが出たというのである。
 このことは象徴的な話である。それだけ西南諸藩が外国の脅威を強く感じていたのであり、機を見るに敏に行動しただけであると。さらにこの差異は稲作の問題ではないかとも言っている。もともとが寒冷地には適さない稲作を東北にまで普及させたがために、東北は南の地方より不利益を被ってきたのだ。
 戊辰戦争について、西南諸藩の開明性と東北諸藩の後進性という視点でとらえ、東北は敗れるべくして敗れたのだとする論があるが、それは間違いであると司馬は言っているようである。
 戊辰戦争は薩長が仕掛けた武力革命である。革命には血祭りが必要なのであり、徳川慶喜が絶対恭順で逃げてしまったがためにその刃は会津に向けられたのである。会津は割を食ったのだというのが司馬の捉えかたなのである。
 「ふざけるな」という反応を予測して司馬の講演は歯切れが悪かったのだと思う。会津は後進的でも頑迷でもなかったのだということを司馬は言っているのだが、それでも戊辰戦争を鉄砲の違いだの割を食ったのだなどと説明されても「そうですね」で済まないのは当然だろうとは思う。
 しかし革命なのである。どんな崇高な理想を掲げようと、体制を倒さないことには成就しないのだ。会津に非があったわけではない。たまたま京都守護職という体制側の要職にあったということだけで敵とされたにすぎない。
 という風に考えていくと、どちらが正しいのかという判断は意味をなさないだろう。まさに俯瞰しているのだ。ただ、そこにうごめく人々がどんな思いで行動し、死んでいったのか、あるいは生き延びたのかという文学的な興味というものは大いにかき立てられるのである。
 ただし、戦争後に新政府が会津に対した仕打ちというのは、それはもう革命とは似つかないものであった。そのことを知っている私たちはどうしても戦争中の薩長をそういう目でみてしまうのだろう。  

Posted by 南宜堂 at 00:23Comments(0)幕末・維新

2009年09月25日

ルール

 私はかつて京都に6年住んだことがあった。その京都ではあまり感じたことがなかったのだが、時たま大阪に行った時など驚かされたものである。歩行者信号というのがあるが、大阪ではほとんどそれが守られることがないのだ。赤であっても、車が来なければ渡ってもいいという、暗黙のルールがあるかのようだった。駅のホームに並ぶ人たちも、電車が入ってくればそんな列は無視して我先に乗り込む。こういう風景に不快感を感じたのは、私も東の人間であったからなのかもしれない。
 この人たちの中には、社会のルールとは別に、自分のルールというものがあって、自分が良しとしたことなら社会のルールは無視できるという思いがあるのかもしれないと、最近はそんな風にも思っている。
 身分制度というのは外のルールであり、それが不合理であれば打ち破ればいいじゃないかと、西南諸藩の下級武士たちは思ったのではなかろうか。それに対して、東北の諸藩では、制度というのはそれが道理に合わなくとも守らねばならないものとしてあったのではないか。
 私が京都を離れて、信州に帰ろうと思った理由というのはいろいろあったのだが、関西に住むことの息苦しさといったものもあったようだ。秩序に守られてあることの安らぎが懐かしかったのかもしれない。
 もちろん、司馬遼太郎も述べているように、戊辰戦争の大きな要因は薩摩や長州の武力倒幕の意志である。しかしその意志をもっと深く掘り下げていったならば、東と西の気質というか風土の違いにまで言及できるのではないか。
 おそらく関西出身の司馬は、戦後百数十年が過ぎても消えない会津の戊辰戦争への思いというものが、理屈ではわかっても感情として理解できなかったのではないだろうか。東と西の対立というのは、彼が自分を納得させるためにとった視点であるような気がする。  

Posted by 南宜堂 at 10:03Comments(0)幕末・維新

2009年09月24日

東と西

 司馬遼太郎について熱く語る友人の影響もあって、彼の作品を読んでいる。
 『街道をゆく』の一節に「戊辰戦争は、日本史がしばしばくりかえしてきた”東西戦争”の最後の戦いといっていい。」とある。彼によれば、平氏は西方、鎌倉幕府は東方、後醍醐天皇は西方、室町幕府は東方、織豊政権は西方、江戸幕府は東方ということである。そして、戊辰戦争は「西方(薩摩・長州)が東方を圧倒した」のであると。
 「なるほど」と思う。「そんなことが」とも思う。司馬遼太郎は、歴史小説の作法として俯瞰するように、ビルの上から下の道路を見下ろすように人物や事件を描くことをしていると自ら述べている。「この俯瞰法で某を見るばあい、筆者は某そのひと以上に某の運命とその環境、そしてその最期、さらには某の存在と行動がおよぼしたあとあとへの影響というものを知ることができる」(「歴史小説を書くこと」)というのである。日本の歴史全体を見下ろすということは、相当に高いところから見る必要があるが、そうして見たばあい、東と西の争いの繰り返しに見えるのであろう。
 戊辰戦争を東西の対立という視点で捉えるというのは、新鮮ではあるのだが戸惑いも覚える。それでは、私の住む信州は東なのか西なのか。地理的には長く東といわれてきた。しかし戊辰戦争では東に組みしたということはない。もともと西ということでもなく、勢いに押されて西に動いたのである。このことは信州だけの話ではない。薩摩・長州など確信犯とも言うべきところをのぞけば、勢いに押されて西に動いたのである。
 よく言われているのはイデオロギーの対立、勤王対佐幕の対立である。西南諸藩は勤王で、東北諸藩は佐幕とするとわかりやすいが、それほど単純なものでもない。体制の側にいるものは、変革ということを好まない。幕藩体制により、藩内の秩序が維持されているとすれば、西南諸藩といえどもそれをひっくり返すような運動が藩ぐるみで起こるはずはないのだ。
 藩内において、上と下の武士の間で身分的な対立があって、下級武士たちがイデオロギーとして勤王を選んだということ、そして彼らが藩の実権を握るようになったということであれば、それは理解しやすい。
 東北の諸藩ではそういった武士階級内部での上下の対立というものがおこらなかった。それだけ藩の体制が強固であったといえる。身分制度というものを変えることのできない固定したものであると考えるか否か、その根底には東と西の気質の違いというようなものがあるのではないか、それが私が司馬遼太郎のいう東西の対立という構図から学んだことである。  

Posted by 南宜堂 at 23:09Comments(0)幕末・維新

2009年09月21日

猿飛佐助の誕生 8

 立川文庫は、玉田玉秀斎と山田一家の共同作業に作業によって生み出された。その現場は現在のアニメのプロダクションのようなものであったのではないだろうか。その様子を寧の娘である池田蘭子は『女紋』という小説の中で描写している。
「みんなの原稿書きは、まず朝の7時ごろからはじまる。それから夜の9時ごろまで、机に向かったが最後、もう傍見をする暇もないというふうだった。
 原稿用紙は玉秀斎から出た。1冊分300枚。これに書き損じとして10枚だけが余分に渡された。だれも1枚とて書き損じなかった。1冊書いて、みんなの手取りは僅かに7円というこまかいものだった。書き損じ用の原稿用紙は大切に溜め込んでいた。参考書といっても机の上に『道中地図』と『武鑑』が置いてあるだけ。1日50枚から60枚。日によっては70枚も書き飛ばさねばならない。文を練る暇など絶対にないのだ。筋立てをしている暇さえも乏しい。」
 立川文明堂から払われる原稿料は1冊14円で買い取り制であった。そのうちの7円が執筆者に払われた。印税ではなかったのでいくら版を重ねても収入は増えなかった。しかも表紙にも奥付にも執筆者の名前が出ることはない。大概が雪花山人とか野花山人という架空の名が記されているだけであった。
 立川文庫は大正8年の玉秀斎の死によって事実上の終焉を迎える。それ以前に創造力の枯渇によりもう新しいものを作り出す能力は失われていたようだ。残された酔神たちはそれぞれ元の仕事に戻っていったようだ。酔神は歯科医として昭和17年に没している。
 玉秀斎は生前、立川熊次郎に銅像を建ててやると言われていたという。猿飛佐助が一番売れたので、忍術を使っている銅像を建ててもらおうかと、講談師仲間の旭堂南陵に言ったことがあるという。結局この話はいつのまにか立ち消えになってしまったようである。もともと立川にそんな気などなかったのかも知れない。
 だが、それは玉秀斎の死後80年以上の時を経て、今治駅前に猿飛佐助の像となって出現した。消えてしまった立川文庫の栄光を思い起こさせるモニュメントが、山田一家の故郷である今治に建てられたのは感慨深いものがあろうが、肝心の玉秀斎、どこに葬られているのかもわからないのだという。山田家の墓に入ることもなく、葬儀の後親族が遺骨を引き取ったということなのだが、その後の行方がわからない。
[猿飛佐助の誕生 おしまい]
この稿を書くにあたり、池田蘭子『女紋』、足立巻一『立川文庫の英雄たち』を参考にさせていただきました。
今治に建つ猿飛佐助像
  

Posted by 南宜堂 at 11:09Comments(0)真田十勇士