2009年03月30日

善光寺

■街角の郷土史 23
 善光寺の御開帳が近づいてきました。6年に1度のこの機会に地元は大いに経済効果を期待しているようです。
 私もこれに便乗して1冊の本を出すことになりました。「こんなにもある善光寺のなぞ」(一草舎刊)です。御開帳期間中の発売ということになりそうです。書店で見かけましたらぜひお手にとってご覧いただければ幸いです。
 便乗というのは、別にここで一儲けということではありません。本で一儲けできる時代ではありません。にもかかわらず出版を続けている地方の出版社には頭の下がる思いです。
 こんな機会でもなければ私の書いたものが出版できるはずがないという意味での便乗です。

 さて、この本でも触れているのですが、「善光寺信仰」というものが中世のものと江戸時代のものでは大きく質的に異なってきているのではないかということです。中世の善光寺信仰ということでいえば、例えば「かるかや」とか能の「柏崎」などを思い浮かべていただけばいいかと思います。この物語の内容についていちいち書くことは煩雑になりますので、このブログの以前の部分を参考にしていただきたいと思います。
 それに対して江戸時代の善光寺信仰の例としては落語の「お血脈」とか弥次喜多の善光寺まいりなどを思い浮かべていただければいいかと思います。
 中世の善光寺まいりには善光寺如来に帰依して救われたい、極楽往生したいという切実な願いが感じられるのに対し、江戸時代のものには享楽的な物見遊山的な余裕のようなものがあります。
 これにはもちろん説経節であったり謡曲であったりするものと落語であったり滑稽文学であったりというような素材もあるかと思います。しかし、そういう違いを考慮に入れてもまだ余りある質的な差異というものが感じられるのです。
 現代の善光寺信仰は、江戸時代のものよりさらに享楽的になってきているようです。神社仏閣への参拝の旅は昔から観光的な要素が強いわけですから、いちがいにそれを否定するものではありません。宗教を切実に必要とする社会はそれほど住みよい社会ではないといわれていますから、今の時代は健全なのかもしれません。  

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2009年03月28日

妻科の家

■街角の郷土史 22
 戦前の一時期、妻科に住んだ詩人田中冬二のことはあまり長野の人には知られていないようです。わたしはこの詩人の長野をうたった次の詩の一節が好きで、いろいろ調べるようになりました。
「長野は仏の町である。山の傾斜にあって坂の多い町である。辻々から山の見える町である。ものしずかな町である。そして燈火のうつくしい町である。/高原で空気の澄んでいるゆえであろうか、わけて冬の燈火の色はなんともいえない。/凍寒の気に冴え冴えしているが、またそのあかりの圏内だけ何か人情的のものを持っている。」(「美しき燈火の町」)
 彼の作品集に「妻科の家」というタイトルのものがありますが、その妻科の家はどこにあったのでしょうか。なかなか特定できないままでいたのですが、最近になって妻科在住の文芸評論家東栄蔵先生からその場所をお聞きすることができました。
 妻科神社の角を北に曲がり、一筋目を西に入った場所が「妻科の家」の跡でした。残念ながら現在は駐車場になってしまい、その家をしのぶことはできませんが、眼下には長野県庁を見下ろし、背後には旭山がそびえる高台にあって、冬二が朝夕眺めたであろう風景を想像することができました。もちろん当時はこれほど家も建て込んではいなかったでしょうし、県庁も木造二階建てルネサンス風のクラシックなものでした。
 田中冬二が長野の町をうたった詩にはほかにこんなものもあります。
「山の傾斜地の林檎園では袋かけをしてゐた/ほととぎすがないた/麦の穂波がひかり 桑の葉はあかるくしろくかへつた/縁先近く柿の花がこぼれて もう薄暑を感じた」(「山国初夏」)
 ゆったりと時が流れていく長野の初夏、それを楽しむ詩人の様子が伝わってきます。
 田中冬二は、四季派の詩人であるとともに、安田銀行(現在のみずほ銀行)に勤める銀行員でした。彼は昭和一四年二月、安田銀行長野支店の副長として東京より赴任し、昭和一七年諏訪支店長となって転任するまでの足掛け四年間、長野の妻科に家族とともに住んでいます。みずほ銀行長野支店は、昭和二三年までは安田銀行といっていました。当時の安田銀行長野支店は、現在地より北の川中島バス大門町バス停の辺にありました。
 冬二はまず単身で赴任して、社宅が空くまでの何日間かを近くの旅館五明館に泊まっています。
「午后五時の勤めより帰りて 三階の部屋より眺むるに/町を囲める雪の山々は蒼然として暮れんとすなり/町家の片屋根に残りの雪しろく 古びたる看板の上 はや電燈はともりたり/とほき山麓の赤き灯は何処ぞ」(「信濃の客舎にて」より)
 また冬二は、着任した長野の町の第一印象を次のように記しています。
「汽車が長野駅に着くと、ホームには長野支店の人たちが出迎えに来ているのです。その時の温かい歓迎ぶりが何とも印象的でした。銀行は土蔵造りで、内部には太いケヤキの柱があって、今日では文化財でしょう。(中略)その時、しみじみ市内の景色を眺めました。わたしが長い間空想し、憧れていた風景と寸分たがわず、その感激は今でも忘れられません。」
 やがて彼は、妻科に家を借り、家族を呼び寄せ長野での暮らしをはじめるのです。
「そうしたころの夕暮れのひとときを、わたしはしばしば夕食までの間を、懐手のままで家の近くを彷徨うた。山の陰にはやくも翳った長野商業のグランドを右に、裾花川の吊り橋の方へゆく。やがて吊り橋の袂に来ると、橋の向こう切りたてたような山の真下に、橙色の瀟洒な発電所が煌々と点している。わたしはゆらゆらとゆれる吊り橋の上、太い針金につかまりながら、脚下の凄まじい奔流をしばし見入ったり、あるいは川べりの石に腰をかけて、上流の柵や鬼無里の山村に、浪漫的の思いをひとり走らせたりした。」
 そんな時、冬二の幼い子供たちが彼を迎えに来ます。冬二は子供たちの手を引いて家路を急ぐのです。童謡の旋律が聞こえてくるような情景ではないでしょうか。

 妻科の家から大門町の安田銀行まで、冬二は大好きな長野の町を歩いて通ったのでしょう。県町、長門町、若松町、このあたりはまだむかしの風情が残る町です。足の向くままに小路に迷い込むと、小川が流れていたり、お地蔵さんのほこらがあったり、屋根の間から旭山が見えたりします。
 「長野の市中でも戸隠街道に通ずる町にはまだ昔の構えが残っている。町並みも古く狭く、粗末な飯屋の前には戸隠から炭や戸隠大根などつけて来た馬が繋がれている。」
 この町はおそらく桜枝町のことでしょう。荒木、七瀬、桜枝町、長野の町のはずれには、そんな近郷からやって来た人相手の町がつい最近までありました。善光寺門前の大門町には旅館や大店が並んでいますが、その一本西の西町には古着屋、東町には問屋、そして桜枝町には戸隠や鬼無里から出てくる人相手の店が並ぶ。町というのは、誰かの手によって恣意的につくられるのではなく、人々の日々の営みの中で自然発生的に発展するものだということがよくわかります。
 「夜 善光寺の町には 蕨夏みかんさくらんぼ/それから芍薬や菖蒲の剪花を売る露店が出た/槲の葉も売つていた」(「山国初夏」)
 夏の夜の風物詩である夜店、八月一二日のお花市の夜をのぞけば、長野では見られなくなってしまった光景ですが、戦前まではさかんに開かれていたようです。
 七月下旬から八月の旧盆の頃にかけて、西町、西之門町、大門町に夜店が出ていました。当時の人々は植木屋、水菓子屋、古道具屋などを冷やかしながらそぞろ歩きを楽しんだようです。
 板戸を閉めた店があります。まだ、こうこうと明かりを照らし商いをしている店もあります。そんな町の一角に並ぶ屋台は、カンテラ、ランプ、裸電灯と思い思いの灯をともし、季節の果物や切り花を並べています。なかには、骨董を売る店なども出ていて、カンテラの光に照らされて怪し気な光を放っています。この胡散臭さがまた夜店の魅力だったのです。
 冬二の詩はどうしてこうも美しく長野の町を歌い上げるのでしょうか。彼は感受性豊かな詩人であり、異邦から来た旅人でした。旅人にしか見えない情景というのがあります。生まれたのは父親の赴任地の福島県でしたが、育ったのは東京の下町です。長野に住む人間には何の変哲もない日常的な風景であっても、都会育ちの冬二にとっては懐かしく新鮮な情景であったのでしょう。
 冬二の詩の情景とは裏腹に、彼が長野に住んだ時期は、日本にとって戦争前夜の最も不幸な時代でした。昭和一三年三月、長野市城山で満蒙開拓青少年義勇軍先遣隊の壮行会が行われています。翌年の九月には新聞の統合がはじまり、一五年の一二月には大政翼賛会が結成されています。カーキ色に染まっていく長野を、彼は銀行の副長席からどんな風に眺めていたのでしょうか。
  

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2009年03月27日

象山口

■街角の郷土史 21
 存続か廃止か、そんな話題が聞かれるようになった長野電鉄屋代線はかつては河東線といわれていました。その名のように千曲川の東側を川の流れと並行して一両か二両編成の電車がのんびりと走っています。
 その松代駅から屋代方面に一つ目の駅が象山口です。駅というより停車場とでもいった方がいいような小駅ですが、「ぞうざんぐち」と読みます。この駅は、象山神社や象山記念館への入口にあるのでそうよばれているわけではなく、近くにある丘のような山、象山が象山口のいわれです。
 佐久間象山の雅号はこの象山にちなんだもといわれています。事実象山自らも「象山記」の中で次のように述べています。
「予廬之西南、巨陵奮起、其状厳然類象、土人目曰象山、則余亦遂以象山、而自号焉。」
 土地の人が象山と呼んでいるこの小山にちなんで雅号を象山としたというのです。
 「さくまぞうざん」か「さくましょうざん」か、県歌「信濃の国」にも歌われている偉人佐久間象山の読み方は人によって、あるいは文献によって異なっています。
 「信濃の国」では「ぞうざんさくませんせいも」と歌われるように「ぞうざん」です。このほか信濃教育会が編集した『象山全集』も「ぞうざんぜんしゅう」です。一方で「しょうざん」と読むのは県外の人に多いようです。例えばNHKが1974年に放映した大河ドラマ「勝海舟」では「さくましょうざん」だったということです。
 もし、象山も自らが書いているように生家近くの小山によったものであれば「ぞうざん」で正解でしょう。しかしこれでもまだ問題は残ります。土地の人たちはほんとうにこの小山を象山と呼んでいたのかどうかということです。
 井出孫六氏は、江戸時代の松代で象がそれほどポピュラーな動物であっただろうかと疑問を呈しています。それに一般には山の名をいうとき「ぞうざん」とはいわず「ぞうやま」というのではないかというのです。
 もともとこの山は竹山といわれていたようです。江戸時代の絵地図を見ると「竹山古城」と書かれています。
 延宝四年(1677)、麓に黄檗宗の象山恵明寺(ぞうざんえみょうじ)が開かれ、それから象山とよばれるようになったようです。
 さて再び佐久間象山の雅号に話をもどします。これまで見たように象山自身の証言、そして象山恵明寺の存在から地元の人たちが言い習わしているように、「さくまぞうざん」が正しい読み方と決めてもいいように思います。
 しかし、ここまで重要な物的証拠を故意示さないで話をすすめてきたのですが、近年になって大きな発見があったことをここで素直に申し上げなければいけません。発見したのは郷土史の泰斗小林計一郎先生です。長野市若槻の神社の幟の下書きに象山の署名があって、それには象山自らの筆跡で「シャウザン」とルビがふってあったのです。
 まさに動かぬ証拠というもので、象山が自筆で書いている以上、私も「ショウザン」で間違いはないと思います。しかし、何か後ろ髪をひかれるような思いが残るのです。
 県歌には「ゾウザン」とありますし、地元でも「ゾウザン」で通っています。さらには、雅号の由来として象山という小山のことを自らが述べているのです。また、わざわざ下書きに「シャウザン」とルビを振った意図は何だったのでしょう。
 ここからは私の想像ですが、最初は象山恵明寺のある象山にちなんで「象山」と雅号をつけ、「ゾウザン」といっていたのではないかと思うのです。ところがある時「ゾウザン」では呉音の「ゾウ」と漢音の「サン」が混じっていることに気づき漢音の読みである「ショウザン」に改めたのではないかと思うのです。
 しかし、そこは負けず嫌いの象山のこと、そのことを表だっては改めなかったのではないかと思うのです。そんなことで二通りの読み方が後々まで残ったのではないかというのが私の妄想的な推理です。
 幟の揮毫を依頼した人たちも、慣例に倣って「ぞうざんせんせい」と呼んでいたのではなかったかと思うのです。
 象山自身は徐々に「ショウザン」に収斂させていきたかったと思われるので「ショウザン」とよぶのが正しいとは思うのですが、どうも長年よびなれた「ゾウザン」も捨てがたく、多分私はこちらを使うのではないかと思います。  

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2009年03月27日

丹波島橋

■街角の郷土史 20
 昔、江戸や上方から善光寺に旅をする人たちは、長野の町に入る前に犀川を渡らなければなりませんでした。江戸時代、丹波島には渡し場があって旅人はここで犀川を渡っておりました。丹波島の渡しは、流れが急であったため、綱が渡されており、船頭二人が流れに竿をさしてあやつり、もう二人が綱をたぐって舟を渡していたのです。
 明治六年(一八七三)には丹波島舟橋会社によって、舟橋が設けられました。舟四十六艘を並べ、その上に板を渡して橋にしたものです。これは有料の橋で、人一人につき七厘五毛、馬一匹につき二銭ずつを徴集していました。舟橋なので、大水が出るたびに取り外され通行止めとなりました。舟が流されてしまうこともあって、舟橋会社の損害は大きかったようです。丹波島は、長野と屋代や篠ノ井を結ぶ交通の要衝で、渡し船の頃よりはずいぶんと便利になったとはいっても、文字通りの浮き橋では不安定で仕方がありません。
 明治二三年九月、地元丹波島宿の柳島仁十郎ら有志が丹波島架橋会社を設立し、資金を出し合って木造の丹波島橋を完成させました。この橋はいわば私製の橋であったので有料で、通行する人馬からは橋銭を徴収しました。当時の新聞には挿し絵入りで新しい木橋のことが紹介されています。それによるとこの橋は、日本国内でも屈指の長橋で、「巨人島の黒虹」と表現されています。
 まさに犀川の一景観となった丹波島橋でしたが、長野の出入り口にあるこの橋が、有料橋であるのは公益に反するという議論が起こり、明治三〇年には県営に移管され、橋銭を徴収するのをやめています。
 国道一〇号線という幹線道路に架かる丹波島橋は、木の橋では増える交通量に対応できなくなってきました。鉄橋になったのは昭和七年のことです。おりからの昭和恐慌で失業対策事業として多くの土木工事が行われましたが、丹波島橋の鉄橋化もその一つでした。ちなみに善光寺の裏手から往生寺に通じる展望道路もこの時の失業対策事業で開かれたものです。
 丹波島橋は、総工費七三万六千円、長さ五四一メートル、幅七・三メートルの堂々たる鉄橋として完成しました。
 この鉄橋は、長野の南の玄関口として長い間親しまれてきましたが、マイカーの時代を迎えて、朝夕に車がこの橋に集中するようになり、渋滞の名所となってしまいました。現在の鉄筋コンクリート製片側二車線の橋になったのは昭和六一年のことです。
  

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2009年03月26日

善白鉄道

■街角の郷土史 18
 昭和一一年から一九年までのたった七年間、裾花川に沿って走っていた小さな鉄道がありました。名前を善光寺白馬電鉄、略して善白鉄道といいます。善光寺白馬と称しながら実際の線路は長野から善光寺温泉の先までしか開通しませんでした。昭和四年一一月、善光寺白馬電鉄は資本金二百万円で設立されました。社長は立見豊丸、本社は長野市桜枝町に置かれました。
 善白鉄道は最初から多難な船出でした。資金難で用地の買収が難航し、ようやく着工をみたのは昭和五年のことでした。昭和一一年一一月二二日、待望の南長野・善光寺温泉東口間が開通しました。東口駅は、善光寺温泉駅が地滑りに見舞われたため臨時に設けられた駅で、翌月の二六日善光寺温泉駅が完成すると、ここが終点となりました。
 線路は電車用に建設されていましたが、経済効率を考えて、導入されたのはガソリンカーでした。残された写真を見ると、車両は一両ないしは二両編成で、裾花川に沿った山間をのどかに走っていました。南長野・善光寺温泉間を一日一〇往復、片道一七分という短い路線でした。運賃は片道一八銭でした。
 鉄道の開通でいちばん恩恵を受けたのは、善光寺温泉と茂菅鉱泉だったといいます。長野から手軽に行ける行楽地ができたということで、開通当初は満員盛況の日が続きました。しかし、この混雑は長続きしませんでした。いつしか通勤、通学時以外は閑散とした車輌が走るようになったのです。
 赤字続きの善白鉄道でしたが、当初の目標としていた北城までの工事は細々と続けられました。善光寺温泉駅開通から六年後、昭和一七年、裾花口までの一キロがようやく開通しました。その後一時乗客が多くなるのですが、それは皮肉にも太平洋戦争が激しさを増し、長野の軍需工場に通う人が増えたからでした。
 昭和一八年一二月一〇日、東京の鉄道省に呼び出された松本久森善白鉄道社長は、一枚の命令書を受け取りました。書かれていたのは「全区間の路線を撤去し、営業を休止せよ」というものでした。軍事体制下にあっては善白鉄道は不要不急線であるという烙印が押されたのです。
 昭和一九年一月一〇日、営業は休止し、レールははずされました。はずされたレールや鉄橋などは東南アジア方面の前線へ軍事資材として送られていきました。あっけない幕切れでした。
■写真は裾花川の鉄橋とガソリンカー、現在の山王駅跡

  

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