2008年03月31日

それからの佐平次

 落語家の立川談志が高崎映画祭で「幕末太陽傅」の話をするということです。ご存知のように、川島雄三監督の「幕末太陽傅」は落語「居残り佐平次」が原作ですから、まあ談志がこの映画の話をするというのもわかります。「新釈落語噺」という本の中で談志は「居残り佐平次」が理想の生き方だと書いています。
 世の中すべてが成り行き次第というのが、佐平次の生き方、吉原に繰り出すのも成り行き、自分一人が居残るようになるのもなりゆき、居残り先でよいしょをしまくるのも成り行きなら、開き直って遊郭の主人を強請るのも成り行きということです。
 川島監督の「幕末太陽傅」は、時代を幕末に設定し、高杉晋作を登場させ、時代に立ち向かおうとする志士たちの生き方と対応させながら、しぶとく生きる庶民佐平次の中に自らを照射させて描いているようです。川島監督は病弱であったようですが、主演のフランキー堺には画面いっぱいに駆け回らせています。そして、時々へんな咳をする佐平次。
 談志はこんな川島監督のインテリぶりがどうも気に入らないようなのです。それでいて、自らの演出した「居残り佐平次」にはこんな台詞を入れています。「妙な奴だよ、こないだ根津の権現様あ詣ったとき、きざはしの下んとこの暗いとこで、頭の上に鳩お乗っけて座っていたよ」
 しかし、物思いにふけったり、暗い顔をするという落語の登場人物というのはどうもらしくありません。
 川島監督はラストシーンで現代の品川の町を駆け抜ける佐平次を描きたかったようですが、周囲の反対で断念したということです。生きたい、生きろというメッセージを伝えたかったのでしょうか。  

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2008年03月28日

人材を派遣して労働させるという仕事

 人材派遣業というのが多くの人に知られるようになってきて、新聞の求人欄を見ましても大きなスペースを占めています。
 こういう仕事は、江戸時代の口入れ屋からはじまって、昔からあったのだとは思いますが、こうも世間の表舞台に上ってきたのは、小泉内閣の規制緩和政策と企業の正規雇用減らしの結果ではないかと素人なりに判断しているのです。
 このことは、高度成長期に日本的経営といわれた終身雇用とか年功序列とか会社一家意識とかいった美徳といわれた慣行に逆行するのではないかと思うのですが、現在の日本の産業の現状としてはそんな昔の夢を追っていられないよということなのでしょう。
 派遣型労働というのは、自分の労働を売って対価をもらうということが露骨に現れている形態であり、仕事に対してのやりがいとか達成感といったものとは無縁なものだろうなと思っている私としては、こういう業種がはびこる現状を苦々しく思ってきました。
 最近の新聞を見ますと、そんな人材派遣業から県内の高校へ求人が来ているというのです。高校側としては慎重な対応をしているようですが、高校の就職率の上昇だけで判断するような問題ではないような気がいたします。
 たとえ幻想であったにしても、自分の希望する会社に入って、その一員として会社をもり立てていくのだとか、その職種で自分を磨いてプロフェッショナルになるのだとかいう思いを若いうちからつみ取ってしまっていいのだろうか。働くのは稼ぐため生活のための手段と割り切ることを若いうちに悟ってしまうことはいいのだろうか。

 今の日本には、派遣とかパートとかアルバイトとか契約社員とかの非正規雇用の労働者が増えていて、同じ労働をしながらも賃金や待遇の面で正社員から差をつけられ、格差を生む原因ともなっています。こういう労働形態はさらに、働くことの意識の格差を生んでいるような気がします。

 カール・マルクスが唱えたのは資本家の手にある労働という行為を自らのもとに取り戻し、働くことの喜び、作り出すことの喜びを自分の喜びとしたいという思想であったと思います。あまり大上段に構えたことは申しませんが、今の日本の働くということの現状はおかしいのではないかと思います。
 先日テレビを見ておりましたら、たまたま新潟の米作地帯に入植した家族の話をやっておりました。脱サラして米作りを目指す一家は、愚直なまでに自然農法にこだわり、機械は使わない。田植えも稲刈りも家族労働だけ、その日は子供の学校は休ませて手伝わせる。大規模農業を展開するまわりの農家からは変わり者と見られている。その一家が収穫した米が東京の店頭でキロ2000円という高値で売買されているというのを見ると努力が報いられることを素直に喜んであげたくなりました。別にお金で換算するわけではありません。労働に対する対価ということを考えたらむしろ安いのかもしれません。しかし、働いたことの結果が「うまい、あまい」という評価となって帰ってくるということは労働の喜びではないでしょうか。  

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2008年03月27日

カール・マルクス

といえば、19世紀ドイツの経済学者であり思想家ですが、ソ連邦の崩壊以来話題に上ることの少なくなった人ではあります。彼の唱えた経済理論は今ではもう古くさくなっていますので、経済学者としてのマルクスから学ぶことはないように思います。しかし思想家としてのマルクスは再び読まれてもいいのではないかと、ばくぜんと思っております。
 そのマルクスの「資本論」ですが、何十年か前に読もうとしたことはあります。結局は一巻も読めないうちに挫折してしまったわけなのですが。
 記憶をたどれば、マルクスによる労働の概念は、対象に働きかけて何かを生み出す行為ということだったと思います。マルクスの時代のヨーロッパといえば、産業革命後の資本主義の勃興期であり、資本家による労働者の搾取が顕著になった時代でした。
 労働者は、労働手段も労働によって作り出される富も資本家に奪われており、労働は苦痛でしかないとマルクスは結論づけていました。
 しかし、現代では「労働は苦痛である」とは一概にいえなくなっているばかりか、「働くことが生き甲斐だ」という人も多く見られるようになりました。労働者の生活が向上することで、搾取されているという意識も薄れているのでしょう。それはよかった、めでたしめでたしということでお話は終わればいいのですが、私の意識の中では何かひっかかるものがあるのです。  

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2008年03月26日

生きていくには

 世を捨てたといえども、生きている以上は食べなければなりません。旅をするにも費用がかかります。西行は職場を退職して、いわば脱サラして自由人となったわけなのですが、生活費はどうしていたのでしょう。和歌の添削指導で生活を立てていたとも思えません。おそらく、佐藤家の荘園からあがる収入があったのでしょう。
 ちょっと時代は下りますが、一遍にくらべたら優雅な出家生活だったことでしょう。一遍のようにすべてを捨てて漂白する聖たちにとって、日々の糧は乞食をして得るか、勧進の一部を生活費にするかしかなかったのです。現代では乞食という言葉はほぼ死語となっており、また差別語として使ってはいけないのかもしれません。ホームレスはよくて乞食はいけないというのも変な話です。乞食というのは当時としては立派な聖たちの修行のひとつでした。また。ある文献によれば、「踊り念仏」を興業として行っていたのではないかともいいます。踊り念仏は、一種のエクスタシー状態の中で男女の僧が入り乱れて足を踏みならし裾を翻して踊るわけですから、人によっては卑猥と感じたのかもしれません。非難する人も多かったようです。しかも、時宗の衣というのは裾が短い、いってみればミニスカートのようなものだったようですから、より扇情的だったのかもしれません。下着などつけておりませんから、時には秘所が見えることもあると非難する文書は記しています。こういう非難を逆手にとって、一遍は尼を前面に出して踊らせたなどともいわれていますが、真偽のほどはわかりません。しかし、その後の芸能の発展に対しての時宗僧の果たした役割を考えると、一遍にはそんな興行師としての才能があったのではないかと考えるのも興味深い話です。

 中世では、一度ドロップアウトしてしまえば、苦しいしいつ命を落とすかわからないような日々ではあっても、なんとかまわりに恵んでもらったりして生きていけたのではないかなと思ってしまいます。近世においても、良寛なんか日々の頂き物を記録していますが、そんな頂き物と托鉢とそれから書を書いてなんとか暮らしていたようです。
 いつの間にか資本主義というのが日本全土を覆い尽くしまして、カネを稼がないとまともな生活ができないような世の中になってしまったようです。働けない人間はのたれ死ぬか生活保護を受けるか、受けても飢え死にする人もいます。一遍の率いる集団では病気のものや足弱のものはまわりから守られてともに旅を続けたようです。
 つげ義春のマンガに河原から石を拾ってきて、それを並べて売っている人の話がありますが、世間にうまく適応できなかったり、弱くて働けなかったりする人というのはなるべく生きていてもらいたくないというのが世間の良識のようです。「働かざるもの食うべからず」とはこの世間の真理なのでしょう。このこともう少し考えてみたい気がします。  

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2008年03月23日

世捨てについて その2

 西行は23歳で出家していますが、それまでは武士でした。俗名を佐藤義清といって、先祖をたどればあの俵藤太にたどりつくという由緒正しき武門の出です。
 この時に西行には妻子がおりました。そんな境遇にあった男がなぜ出家の道を選んだのか、当時もいろいろな憶測が乱れ飛んだようなのです。曰く、この世の無常を悟ったためとか、叶わぬ恋がその原因であるとか。ただその真相は千年も昔のことですから、霞の彼方にあって、わかる道理もありません。伝説によれば、すがりつく幼い娘を投げ捨てて出家したとか。そこまでして世を捨てなければならないものだろうかと思ってしまいます。
 しかし、結果的に見て、西行の出家は徹底したものではなかったように思います。僧体になったものの、山奥に隠棲するわけでもなく、相変わらず都の近くに住んで、結構俗界との交わりもしていたようです。娘を投げ捨ててまで出家したというには生ぬるいような気がいたしますが、西行当人にしてみれば予定の行動だったのかもしれません。出家といってもそれは決して世を捨てて隠棲するということではなく、世のしがらみから離れて、歌に旅にと自由に動き回りたいという願望からの出家だったのでしょう。心の自由を確保するための出家といったらいいのでしょうか。
 西行の生きた時代は平安時代の末から鎌倉時代にかけてで、鳥羽院の北面の武士という宮仕えの同僚に平清盛がいました。清盛とは年齢も一緒です。この二人同僚としてどんな交わりをしたのかわかりませんが、片や平氏の統領として天下に君臨し、かたや当代一流の文化人として後世まで名を残しました。武士の勃興する時代すごいストレスの中出世競争に身を削るも一つの生き方、そこからドロップアウトして文化人になってしまうのも一つの生き方なのでしょう。
 しかし、それにしても自分を見極めるのに23歳というのはいささか早すぎるような気がしますが。  

Posted by 南宜堂 at 18:58Comments(0)