2008年03月28日
人材を派遣して労働させるという仕事
人材派遣業というのが多くの人に知られるようになってきて、新聞の求人欄を見ましても大きなスペースを占めています。
こういう仕事は、江戸時代の口入れ屋からはじまって、昔からあったのだとは思いますが、こうも世間の表舞台に上ってきたのは、小泉内閣の規制緩和政策と企業の正規雇用減らしの結果ではないかと素人なりに判断しているのです。
このことは、高度成長期に日本的経営といわれた終身雇用とか年功序列とか会社一家意識とかいった美徳といわれた慣行に逆行するのではないかと思うのですが、現在の日本の産業の現状としてはそんな昔の夢を追っていられないよということなのでしょう。
派遣型労働というのは、自分の労働を売って対価をもらうということが露骨に現れている形態であり、仕事に対してのやりがいとか達成感といったものとは無縁なものだろうなと思っている私としては、こういう業種がはびこる現状を苦々しく思ってきました。
最近の新聞を見ますと、そんな人材派遣業から県内の高校へ求人が来ているというのです。高校側としては慎重な対応をしているようですが、高校の就職率の上昇だけで判断するような問題ではないような気がいたします。
たとえ幻想であったにしても、自分の希望する会社に入って、その一員として会社をもり立てていくのだとか、その職種で自分を磨いてプロフェッショナルになるのだとかいう思いを若いうちからつみ取ってしまっていいのだろうか。働くのは稼ぐため生活のための手段と割り切ることを若いうちに悟ってしまうことはいいのだろうか。
今の日本には、派遣とかパートとかアルバイトとか契約社員とかの非正規雇用の労働者が増えていて、同じ労働をしながらも賃金や待遇の面で正社員から差をつけられ、格差を生む原因ともなっています。こういう労働形態はさらに、働くことの意識の格差を生んでいるような気がします。
カール・マルクスが唱えたのは資本家の手にある労働という行為を自らのもとに取り戻し、働くことの喜び、作り出すことの喜びを自分の喜びとしたいという思想であったと思います。あまり大上段に構えたことは申しませんが、今の日本の働くということの現状はおかしいのではないかと思います。
先日テレビを見ておりましたら、たまたま新潟の米作地帯に入植した家族の話をやっておりました。脱サラして米作りを目指す一家は、愚直なまでに自然農法にこだわり、機械は使わない。田植えも稲刈りも家族労働だけ、その日は子供の学校は休ませて手伝わせる。大規模農業を展開するまわりの農家からは変わり者と見られている。その一家が収穫した米が東京の店頭でキロ2000円という高値で売買されているというのを見ると努力が報いられることを素直に喜んであげたくなりました。別にお金で換算するわけではありません。労働に対する対価ということを考えたらむしろ安いのかもしれません。しかし、働いたことの結果が「うまい、あまい」という評価となって帰ってくるということは労働の喜びではないでしょうか。
こういう仕事は、江戸時代の口入れ屋からはじまって、昔からあったのだとは思いますが、こうも世間の表舞台に上ってきたのは、小泉内閣の規制緩和政策と企業の正規雇用減らしの結果ではないかと素人なりに判断しているのです。
このことは、高度成長期に日本的経営といわれた終身雇用とか年功序列とか会社一家意識とかいった美徳といわれた慣行に逆行するのではないかと思うのですが、現在の日本の産業の現状としてはそんな昔の夢を追っていられないよということなのでしょう。
派遣型労働というのは、自分の労働を売って対価をもらうということが露骨に現れている形態であり、仕事に対してのやりがいとか達成感といったものとは無縁なものだろうなと思っている私としては、こういう業種がはびこる現状を苦々しく思ってきました。
最近の新聞を見ますと、そんな人材派遣業から県内の高校へ求人が来ているというのです。高校側としては慎重な対応をしているようですが、高校の就職率の上昇だけで判断するような問題ではないような気がいたします。
たとえ幻想であったにしても、自分の希望する会社に入って、その一員として会社をもり立てていくのだとか、その職種で自分を磨いてプロフェッショナルになるのだとかいう思いを若いうちからつみ取ってしまっていいのだろうか。働くのは稼ぐため生活のための手段と割り切ることを若いうちに悟ってしまうことはいいのだろうか。
今の日本には、派遣とかパートとかアルバイトとか契約社員とかの非正規雇用の労働者が増えていて、同じ労働をしながらも賃金や待遇の面で正社員から差をつけられ、格差を生む原因ともなっています。こういう労働形態はさらに、働くことの意識の格差を生んでいるような気がします。
カール・マルクスが唱えたのは資本家の手にある労働という行為を自らのもとに取り戻し、働くことの喜び、作り出すことの喜びを自分の喜びとしたいという思想であったと思います。あまり大上段に構えたことは申しませんが、今の日本の働くということの現状はおかしいのではないかと思います。
先日テレビを見ておりましたら、たまたま新潟の米作地帯に入植した家族の話をやっておりました。脱サラして米作りを目指す一家は、愚直なまでに自然農法にこだわり、機械は使わない。田植えも稲刈りも家族労働だけ、その日は子供の学校は休ませて手伝わせる。大規模農業を展開するまわりの農家からは変わり者と見られている。その一家が収穫した米が東京の店頭でキロ2000円という高値で売買されているというのを見ると努力が報いられることを素直に喜んであげたくなりました。別にお金で換算するわけではありません。労働に対する対価ということを考えたらむしろ安いのかもしれません。しかし、働いたことの結果が「うまい、あまい」という評価となって帰ってくるということは労働の喜びではないでしょうか。
Posted by 南宜堂 at
00:36
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