2012年10月20日
安曇野といえば、新宿中村屋
信州安曇野というと私たちはワサビ田に道祖神、残雪の北アルプスを映す田園風景などがまず目に浮かぶが、ここはまたヒューマニズムとリベラリズムの理想に燃えた多くの人々を生み出した地でもあった。明治27年、穂高の養蚕家であった相馬愛蔵は、小学校教師井口喜源治らとともに芸妓置屋設置の反対運動を展開する。そのため井口は教職を追われるのだが、相馬愛蔵等の援助により研成義塾という私塾をつくり、キリスト教主義に基づいた教育を行った。研成義塾からはワシントン靴店の創業者東條たかし、暗黒日記のリベラリスト清沢洌らを輩出している。また、荻原碌山も研成義塾に学んでいる。穂高には、碌山の作品を収蔵する碌山美術館があるが、煉瓦造りの教会風の建物は、安曇野観光のシンボルとして知られている。井口喜源治の記念館もあるが、こちらはいつ行ってもひっそりとしている。
10年ほど前、私は「信州はじめて物語」(郷土出版社)という本を出版した。私にとっては思い出深い最初の著書である。それからしばらくして、本を読んだという大学の先生から講演の依頼を受けた。短大の学園祭で学生たちに何か話してくれということであった。共学の短大であったが、女学生が圧倒的に多いということで、私は相馬黒光のことを話そうと思った。この人は正確には信州人ではない。仙台藩士の娘である。本名は星良といった。明治9年の生まれで、10代の頃キリスト教の洗礼を受け、上京して明治女学校に学んだ。ここでは教師であった島崎藤村の講義を受けている。ちなみに良の生まれた明治9年は、後に記す山本八重が洗礼を受けた年である。
卒業後は仙台に帰っていたが、ここで信州穂高生まれの6歳年上の青年相馬愛蔵と知り合い、結婚して穂高に住んだ。黒光は一台のオルガンと長尾杢太郎の油絵「亀戸風景」だけを嫁入り道具に愛蔵のもとに嫁いだという。愛蔵は黒光のために洋室を増築して花嫁を迎えた。かつて穂高の相馬家でその洋室を見たことがあった。相馬家に出入りしていた後に碌山となる守衛少年がが洋画に目ざめたのがこの「亀戸風景」だったといわれている。
仙台の武家の娘で、早くに上京して新しい時代の息吹きを感じていた黒光に、信州の農家での生活は馴染めなかったようだ。やがて身体を壊し、療養のために夫とともに東京に移住する。
二人は本郷東大前の居抜きのパン屋を買って商売をはじめる。中村屋の開業である。大学の前という立地の良さもあって中村屋は繁盛した。中村屋はその後新宿に移り、新宿中村屋として多くの人に知られるようになった。
愛蔵・黒光夫妻は事業のかたわら文化人たちのサロンをつくり、同郷の彫刻家荻原碌山やロシアの詩人エロシェンコらを保護した。高村光太郎や松井須磨子もよく出入りしていた。
そんな話を学生たちにしたのだが、その時にまくらに話したのが相馬夫妻の発明になるクリームパンのことだった。「信州はじめて物語」に中村屋のクリームパンのことを書いたのだ。
黒光はアンビシャスガールと呼ばれた。新しい時代を希望を持って突き進んだ女性であった。
先ごろ行った会津の町にはあちらこちらに山本八重のポスターが貼られていた。ハンサムウーマンだそうである。銃を持って勇ましく戦ったということがずいぶんと強調されているが、東北の女性ということであれば、アンビシャスガール相馬黒光もいますよと言いたい。
相馬黒光と山本八重
10年ほど前、私は「信州はじめて物語」(郷土出版社)という本を出版した。私にとっては思い出深い最初の著書である。それからしばらくして、本を読んだという大学の先生から講演の依頼を受けた。短大の学園祭で学生たちに何か話してくれということであった。共学の短大であったが、女学生が圧倒的に多いということで、私は相馬黒光のことを話そうと思った。この人は正確には信州人ではない。仙台藩士の娘である。本名は星良といった。明治9年の生まれで、10代の頃キリスト教の洗礼を受け、上京して明治女学校に学んだ。ここでは教師であった島崎藤村の講義を受けている。ちなみに良の生まれた明治9年は、後に記す山本八重が洗礼を受けた年である。
卒業後は仙台に帰っていたが、ここで信州穂高生まれの6歳年上の青年相馬愛蔵と知り合い、結婚して穂高に住んだ。黒光は一台のオルガンと長尾杢太郎の油絵「亀戸風景」だけを嫁入り道具に愛蔵のもとに嫁いだという。愛蔵は黒光のために洋室を増築して花嫁を迎えた。かつて穂高の相馬家でその洋室を見たことがあった。相馬家に出入りしていた後に碌山となる守衛少年がが洋画に目ざめたのがこの「亀戸風景」だったといわれている。
仙台の武家の娘で、早くに上京して新しい時代の息吹きを感じていた黒光に、信州の農家での生活は馴染めなかったようだ。やがて身体を壊し、療養のために夫とともに東京に移住する。
二人は本郷東大前の居抜きのパン屋を買って商売をはじめる。中村屋の開業である。大学の前という立地の良さもあって中村屋は繁盛した。中村屋はその後新宿に移り、新宿中村屋として多くの人に知られるようになった。
愛蔵・黒光夫妻は事業のかたわら文化人たちのサロンをつくり、同郷の彫刻家荻原碌山やロシアの詩人エロシェンコらを保護した。高村光太郎や松井須磨子もよく出入りしていた。
そんな話を学生たちにしたのだが、その時にまくらに話したのが相馬夫妻の発明になるクリームパンのことだった。「信州はじめて物語」に中村屋のクリームパンのことを書いたのだ。
黒光はアンビシャスガールと呼ばれた。新しい時代を希望を持って突き進んだ女性であった。
先ごろ行った会津の町にはあちらこちらに山本八重のポスターが貼られていた。ハンサムウーマンだそうである。銃を持って勇ましく戦ったということがずいぶんと強調されているが、東北の女性ということであれば、アンビシャスガール相馬黒光もいますよと言いたい。
相馬黒光と山本八重
Posted by 南宜堂 at 22:52│Comments(1)
│雑記
この記事へのコメント
Posted by 金子洋一 at 2018年07月27日 08:59
相馬黒光の写真ではないと見ますが・・・