2014年03月10日
「信濃の国」考 1
多くの県に県歌とか県民歌というものがあるが、「信濃の国」ほど県民に親しまれている県歌はないのではないか。
長野県民が二人よれば「信濃の国」が出るとか、信州人の集まりには必ず万歳と「信濃の国」がつきものだとか言われるのだから。まあ、それは少々大袈裟だとしても、たいがいの信州人は二番くらいまではそらで歌えるのではないだろうか。
そんな「信濃の国」だが、作られたのは明治三一年というから百二十年近く前の話だ。その辺りの事情を、作詞者の浅井洌は後に次のように回想している。
「初め此の信濃の国の歌を作りましたのは、明治三十一、二年頃と思いますが、たしかな記憶はありませぬ。動機は信濃教育会において、本県下に関する地理や歴史等の題を選び、それを長野県師範学校の国語担任の内田慶三君とわたしとで手分けして作りました。深く考慮もせずに、只地理歴史の事柄で取り合わせて叙述したに過ぎません。それを当時の師範学校音楽教師依田弁之助君が作曲し、師範生徒などに教えましたがその時は余り歌われずに忘れられていました(後略)」
これは昭和九年に浅井が、「信濃の国」を作った時のことを思い出して語っているものだ。「信濃の国」は信濃教育会からの依頼によって作られたものであった。実はこの時「信濃の国」のほかに「諏訪湖」「浅間山」「川中島」「養蚕」「村上義光」「宗良親王」といった詞が作られ、いずれも依田弁之助が曲をつけている。
これらの唱歌を作った信濃教育会のねらいについては、浅井の文章には触れられていないが、おそらく唱歌の教材として当時は適当なものがなかったこと、郷土愛を育てるために唱歌教育を役立てようというような目的があったのではなかろうかと思われる。
特に「信濃の国」については、当時から険悪であった南北の対立を解消し、信州一国意識をそだてようという目的もあったのではないかということがいわれているが、はたしてそうなのか、このことは後になって考えてみたい。
いずれにせよ、唱歌は作ったもののたいして歌われることもなくそのうちに忘れられてしまったようだ。この忘れられた「信濃の国」をよみがえらせたのが北村季晴であった。
長野県民が二人よれば「信濃の国」が出るとか、信州人の集まりには必ず万歳と「信濃の国」がつきものだとか言われるのだから。まあ、それは少々大袈裟だとしても、たいがいの信州人は二番くらいまではそらで歌えるのではないだろうか。
そんな「信濃の国」だが、作られたのは明治三一年というから百二十年近く前の話だ。その辺りの事情を、作詞者の浅井洌は後に次のように回想している。
「初め此の信濃の国の歌を作りましたのは、明治三十一、二年頃と思いますが、たしかな記憶はありませぬ。動機は信濃教育会において、本県下に関する地理や歴史等の題を選び、それを長野県師範学校の国語担任の内田慶三君とわたしとで手分けして作りました。深く考慮もせずに、只地理歴史の事柄で取り合わせて叙述したに過ぎません。それを当時の師範学校音楽教師依田弁之助君が作曲し、師範生徒などに教えましたがその時は余り歌われずに忘れられていました(後略)」
これは昭和九年に浅井が、「信濃の国」を作った時のことを思い出して語っているものだ。「信濃の国」は信濃教育会からの依頼によって作られたものであった。実はこの時「信濃の国」のほかに「諏訪湖」「浅間山」「川中島」「養蚕」「村上義光」「宗良親王」といった詞が作られ、いずれも依田弁之助が曲をつけている。
これらの唱歌を作った信濃教育会のねらいについては、浅井の文章には触れられていないが、おそらく唱歌の教材として当時は適当なものがなかったこと、郷土愛を育てるために唱歌教育を役立てようというような目的があったのではなかろうかと思われる。
特に「信濃の国」については、当時から険悪であった南北の対立を解消し、信州一国意識をそだてようという目的もあったのではないかということがいわれているが、はたしてそうなのか、このことは後になって考えてみたい。
いずれにせよ、唱歌は作ったもののたいして歌われることもなくそのうちに忘れられてしまったようだ。この忘れられた「信濃の国」をよみがえらせたのが北村季晴であった。
Posted by 南宜堂 at 21:03│Comments(0)