2009年08月31日

荒木又右衛門

 歴史的な総選挙の投票が行われた日曜日の昼、ひょんな偶然からテレビの時代劇を見てしまいました。加藤剛主演の「荒木又右衛門」。と言われても今の人はどんな人だったかも知らないのではないかと思います。私も「鍵屋の辻」の36人斬りで有名なという聞きかじりくらいで何も知りませんでした。原作は長谷川伸です。
 時代は徳川3代将軍家光の頃、平和になったのですが巷には職を失った侍たちがあふれていました。荒木又右衛門も大坂冬の陣の後に浪人していたのですが、大和郡山藩に剣術師範として召し抱えられます。
 又右衛門の妻みのの弟渡辺源太夫は、備前岡山藩に仕え、藩主池田忠雄の寵童となっていました。その源太夫に懸想した河合又五郎は、拒まれたため源太夫を斬って出奔します。テレビでは源太夫の女々しさに又五郎が腹を立てたということになっています。
 又五郎は江戸に逃れ、旗本安藤家にかくまわれます。岡山藩では身柄の引き渡しを要求するのですが、安藤家はそれを拒みます。背後には、関ヶ原後の外様大名と旗本との確執と意地の張り合いがあったという風に描かれております。
 池田忠雄は無念のうちに世を去りますが、その上意を受けた源太夫の兄渡辺数馬が仇討ちの旅に出ます。荒木又右衛門は妻からの懇願もあり、数馬に助太刀することにします。
 一方河合又五郎には叔父である又右衛門の剣術師範の同僚である河合甚左衛門や義兄の桜井半兵衛が助勢します。
 そんな事情から、伊賀上野の鍵屋の辻で両派は戦うわけですが、この話が誇張され講談や大衆小説で36人斬りなどという話になったものです。実際には死者も負傷者も各5人ということであったようです。
 どちらが正しかったのか、長谷川伸はそういう描き方はしませんでした。発端からが男同士の恋の嫉妬だったわけですから白黒つけることではなかったのでしょうが。侍同士の意地の張り合い、旗本と大名の面子をかけた戦いの様相で、後の世から見たら武士道残酷物語です。
 しかし、長谷川伸は後の世の高いところから眺める高みの見物という視点ではなく、その時代のその現場にまで降りていって、当事者たちの言い分を聞くという姿勢で描いているようです。
 夫婦とか親子とか親友とか、時代を超えて人が抱いている自然の情愛というものが、武士道とか義理とか面子とかいったものにゆがめられていく様子は、長谷川伸の股旅小説にも描かれているテーマです。

 そういうおかしな侍の時代が何百年も続いて明治維新がやってくるわけですが、幕末の政治指導者たちの行動原理もここからほとんど出ていないのではないかと思われます。その中で、坂本龍馬は頭ひとつくらいそこから抜け出した考えを抱いていたのではないかと、とってつけたような結論ですがそんなことも思ったのです。  

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2009年08月27日

龍馬の場合

 坂本龍馬は、文久2年3月24日土佐藩を脱藩した。士分にのし上がろうとした土方歳三とは逆のコースである。その理由というのはよくわかっていない。一説には土佐勤王党の吉田東洋暗殺計画に嫌気がさしたからだといわれている。その前年、龍馬は武市瑞山が主宰する土佐勤王党に加盟している。土佐勤王党は、瑞山をはじめそのほとんどの構成員が郷士か上層の農民であった。このことから、土佐勤王党の運動の底流に、土佐藩の身分制度への反発があり、龍馬の加盟もそんな動機を指摘する意見もある。これは誠にわかりやすい動機付けではあると思うが、龍馬の育った環境やその後の行動から考えて、そんな狭い了見からではないだろうと思う。
 いずれにせよ坂本龍馬は一介の浪人となった。姉乙女への手紙の中で、龍馬は自分のことを「土佐の芋掘り」という風に言っている。これは比喩的な表現だと思うのだが、要するに机上の空論をかざすような書生の議論ではなく、土の中に眠る芋を掘り起こすように、自分の手で自分の体を使って自分の道を切り開いていこうという決意であろう。こういう言い方の中からは上昇志向というのは読み取れない。もちろん封建の身分制度には理不尽なものを感じていたろうとは思うが、何が何でもそれを固定し、自らは上昇をはかるということではなく、それは平らにしていけばいいと考えたのであろう。
 この時代こういう身分制度というものを相対的なものととらえていた人物というのは少ないように思う。坂本龍馬に生まれながらに身に付いた個性というものもあるだろうが、育った環境にもそれはあるようだ。有名なエピソードに慶応3年西郷隆盛が高知を訪れた時の話がある。西郷は坂本の本家才谷屋の当主源三郎をえらく気に入り、武士に取り立てるよう藩主に進言したという。これを知って才谷屋の人たちは喜ぶばかりかえらく困惑したのだという。自由で豊かな生活を捨ててまで武士になりたいとは思わなかったようである。龍馬の中にもこんな気質があったのではないか。例の「新政府の高官となるよりは世界の海援隊をやりたい」という台詞もこんなところから出てくるのかもしれない。
 龍馬の師である勝海舟は龍馬とはひじょうに似通った考えをもった人物だとは思うが、海舟はついに最後まで幕臣である身分を捨てようとは思わなかった。  

Posted by 南宜堂 at 16:28Comments(0)幕末・維新

2009年08月25日

龍馬と歳三 3

 それからの二人の生き様は、司馬遼太郎の小説などでおなじみなのであるが、そのことをここで紹介するのが目的ではない。江戸時代の身分制度というものが、坂本龍馬や土方歳三の活動のジャンプ台になったのだろうかというような素朴な興味があったのである。
 歳三は多摩の百姓の倅である。土方家は経済的には恵まれた農家であった。しかし、士農工商の農、百姓であるのには間違いがない。幕末、多摩の百姓の間では剣術を習うのが流行であった。歳三も天然理心流の近藤勇に入門している。その近藤勇の試衛館道場の主要メンバーが上洛して新選組となるのだが、彼らのほとんどが武士ではない。
 一方の坂本家は郷士である。土佐の郷士身分というのは、関ヶ原以前長宗我部の家臣であったものが、山内の時代となって家臣から外れたもので、山内の家臣とは歴然とした身分差別があった。しかし、坂本家の本家は才谷屋という豪商であり、龍馬も経済的には裕福な家庭の子であったことは土方歳三と同じである。
 新選組を結成し、その組織を増大させていった近藤勇や土方歳三の行動を見ていると、彼らの何としても武士になりたいという執念は、時には滑稽なほどにいじましいものがある。多摩の百姓剣法で一生を終えてもよかったはずである。彼らの武士になりたいという思いの底に、厳然としてある士農工商の身分制度への嫌悪というものがあったのだろうか。
 例えば島崎藤村の小説「夜明け前」の主人公青山半蔵は木曽の名主であるが、代官によって収奪される農民たちの姿に同情し、新しい時代への期待を寄せる。どうも近藤や土方の周囲からはそんな切実なものが見えてこない。彼らの武士へのあこがれは多分にスタイルのようなものではなかったのかという気もするのだ。武士というスタイルへのあこがれ、それは彼らが作った局中法度とよばれるものの一条一条からも読み取れるし、甲陽鎮撫隊として多摩を通過した時の大名行列のようなその振る舞いからも感じられる。  

Posted by 南宜堂 at 19:37Comments(0)幕末・維新

2009年08月22日

龍馬と歳三 2

 嘉永6年(1853)という年、二人はいったい何をしていたのか。年譜で追ってみると、坂本龍馬は3月剣術修行のため江戸に出かけている。一方の土方歳三は、江戸の呉服屋に奉公していることになっている。二人とも江戸にいたのである。
 6月3日、浦賀沖に4隻の黒船が姿を現した。このとき、浦賀奉行所から小舟で駆けつけたのが、与力の中島三郎助であった。この突然の出来事に江戸中は大騒ぎになったと歴史書を見ると書かれているのだが、意外であったのは、ニュースを聞きつけた人々が、陸路から海路からいっせいに見物に押し寄せたというのである。
 野次馬根性というのは今も昔も変わりないのかも知れない。幕府は再三にわたって「異国船見物禁止令」を出したが、ほとんど効き目はなかったようだ。わが松代藩の佐久間象山も大森から小舟を雇って黒船見物に向かっている。それほどに黒船の来航は、今で言ったらワイドショーのトップニュース、かつてのアイドルが覚せい剤使用で逮捕されたほどのニュース、知らないと馬鹿にされるような出来事であったということになる。
 そんなニュースを前に、二人は見物に行かなかったのだろうか。権威あるNHKの大河ドラマ「新選組」では確か龍馬も歳三もそして近藤勇も見物に行ったということになっていたと思う。
 黒船の来航に象徴されるような、迫りつつある異国の脅威に対して二人はどのように考えていたのか、このこともまたよくはわからない。龍馬が国元の父親に「異国船処々に来り候由に候へば、軍(いくさ)も近き内と存じ奉り候。その節は、異国の首を打取り帰国仕るべく候」と勇ましい手紙を送っているが、この時の龍馬を明確な尊王攘夷論者と決めつけることはできない。当時の武士誰もが抱くような感想なのである。
 歳三はといえば、奉公先で女中を妊娠させたりしていろいろ問題を起こしていた。どちらかと言えば後の土方からは想像できないような軟派な印象の10代の土方歳三であったようだ。
 黒船の来航に対し、二人がなんらかの直接のアクションを起こしたということはないのだが、この出来事はその後の国全体の動きに強く作用し、尊王攘夷運動を激化させ、二人はその渦の中に否応もなく巻き込まれていくのである。  

Posted by 南宜堂 at 13:54Comments(0)幕末・維新

2009年08月20日

龍馬と歳三

 坂本龍馬と土方歳三は幕末の二代スターである。と決めつけてしまうのは私的な感想にすぎないと言われてしまいそうだが、人気度という点でいったら双璧であろう。
 この二人、同時代に生きた人ではあるが、その行動、政治思想あらゆる面で正反対の人であった。しかし、あえて見つけようとすると共通点もないことはないのである。実はこの二人生まれた年が天保6年で一緒なのだ。土方歳三は5月5日、坂本龍馬は11月15日だから、半年ほど土方が早い。そして亡くなったのも二人とも30代の前半、駆け抜けたような短い生涯であった。
 松浦玲氏は著書「勝海舟」(中公新書)の中で面白い見解を示されている。「維新変革の全コースの中で、多くの日本人を新しい統一国家を目指す運動へとかりたてる決定的な契機となったのは、なんといっても、嘉永6年(1853)6月のペリー来航である。」とした上で、そこから明治維新にまで突き進むのに中心的な役割を担っていく人々が「分担した仕事と、嘉永6年癸丑の年という時点でのその年齢との間に、密接な関係があるように思えてならない。」というのである。
 その後、「倒幕・維新の政治行動の中心となった面々」すなわち、西郷隆盛・大久保利通・吉田松陰・桂小五郎・坂本龍馬・岩倉具視などは皆当時10代から20代であった。
 そんな志士たちの師匠筋に当たる佐久間象山・緒方洪庵・横井小楠・藤田東湖といった人たちはいずれも40代から50代という年代であった。
 坂本龍馬も土方歳三も19歳という多感な時に、黒船の来航という大事件に遭遇したのである。  

Posted by 南宜堂 at 23:30Comments(4)幕末・維新