2009年08月09日

海舟嫌い

 勝海舟の評価については、毀誉褒貶相半ばするといっていいが、こと戊辰戦争の敗者の側に立つ人々の間ではすこぶる評判が悪い。
 評価する人々は、江戸を戦火から守った恩人、戊辰戦争の犠牲者を最小限にとどめたのは勝海舟の功績であるとする。
 一方でいわれるのは、幕臣でありながら最後まで戦う事なく、ひたすら恭順の姿勢をしめしたことの卑屈さへの批判といったらいいのだろうか。
 それで思い出されるのは、明治34年(1901)1月1日号の「時事新報」に掲載された福沢諭吉の「瘠我慢の説」である。福沢はこの論文の中で、徳川の衰退を父母の大病にたとえて次のように記している。「父母の大病に回復の望なしとは知りながらも、実際の臨終に至るまで医薬の手当を怠らざるがごとし。これも哲学流にていえば、等しく死する病人なれば、望なき回復を謀るがためいたずらに病苦を長くするよりも、モルヒネなど与えて臨終を安楽にするこそ智なるがごとくなれども、子と為りて考うれば、億万中の一を僥倖しても、故らに父母の死を促がすがごときは、情において忍びざるところなり。」
 ここで福沢は、国家といえども私的なものであって、公のものではないと言っている。もともとは国などなく、人々は自由に行き来し、生産し交易をしていたのである。しかし、現実には人々は、国を立てまた政府を設けてきたのである。そして、その国に固執するあまり忠君愛国の情も生まれ、それを国民最上の美徳と称するようになったのである。「故に忠君愛国の文字は哲学流に解すれば純乎たる人類の私情なれども、今日までの世界の事情においてはこれを称して美徳といわざるを得ずなり」ということなのである。
 このような認識から福沢諭吉は、明治維新における勝海舟を「左れば自国の衰頽に際し、敵に対して固より勝算なき場合にても、千辛万苦、力のあらん限りを尽し、いよいよ勝敗の極に至りて始めて和を講ずるか、もしくは死を決するは立国の公道にして、国民が国に報ずるの義務と称すべきものなり。すなわち俗にいう瘠我慢なれども、強弱相対していやしくも弱者の地位を保つものは、単にこの瘠我慢に依らざるはなし。」として批判するのである。
 ちょっと引用が長く、論理が錯綜してしてしまった感があるが、要するに福沢諭吉は、徳川といえども300年にわたって幕臣たちによってつくられ、支えられてきた公理である。勝海舟のように戦わずして白旗を掲げるは「日本の経済において一時の利益を成したりといえども、数百千年養い得たる我日本武士の気風を傷うたるの不利は決して少々ならず。」というのである。
 さらに、諭吉は維新後の海舟が薩摩・長州のなど敵国の人士と並んで顕官となったことについても批判の矛先を向けている。
 この福沢諭吉の批判は、勝海舟としても大いに反論したいところであろう。海舟はある時点で徳川幕府を見限っていた。徳川は藩ではないが、ある意味では精神的な脱藩者とでもでもいうべき心境にあった。その海舟が滅びる徳川幕府に対して瘠我慢なぞするいわれはないのである。  

Posted by 南宜堂 at 23:21Comments(3)幕末・維新