2009年08月10日
海舟嫌い つづき
私は心情的には福沢諭吉を支持したい。日本人の感性の多くは福沢に傾いていると思われる。特に維新後の身の処し方については、徳川の禄を食んできた身であれば、徳川幕府崩壊後に、それを倒した側に雇われるというのはなかなか納得がいかないのだ。
しかし一方で、福沢諭吉の論にも危険なものを感じる。国家というのは人間社会の自然の形ではないというのが福沢の考えである。しかし、同じ言語や風習をもつもの、あるいは日常の交易圏のもの同士が集まって国家ができたとする。この国家は人間によりつくられたものではあるのだが、長い歴史を刻んでいく中で、もともと備わったもののように思われたり、国を愛する気持ちとか、それを統治する君主への忠誠心が生ずるという事も大事にしなければならない。そうすることにより社会に秩序が生まれ、発展もしていくのである。
そんな国家(幕府)が存亡の時に当たって、勝海舟はどうしたのか。「然るを勝氏は予め必敗を期し、その未だ実際に敗れざるに先んじて自から自家の大権を投棄し、ひたすら平和を買わんとて勉めたる者なれば、兵乱のために人を殺し財を散ずるの禍をば軽くしたりといえども、立国の要素たる瘠我慢の士風を傷うたるの責は免かるべからず。」
だがこの福沢諭吉の論を進めていくと、太平洋戦争末期、国体の護持を旗印に多くの国民を死に追いやった論理にもつながるのではないか。「殺人散財は一時の禍にして、士風の維持は万世の要なり。」という福沢の論理には道徳的ではあるが、危険なものがかんぜられないだろうか。
このようにいう福沢諭吉の廻りには一人の潔い武士の姿があった。万延元年咸臨丸の船将として勝とともにアメリカに渡った木村摂津守である。木村は維新後いっさいの公職に就かず、清貧の生活に甘んじて世を去ったという。自分より身分の低かった福沢に対し、維新後は「先生」と敬って交わった。
勝海舟という人は現実主義者であったようだ。福沢諭吉の批判に対しては何の反論もしているわけではないが、あの混乱した状況の中で、取りうるべき最良の方法をとったのだという自負はあっただろう。その後の混乱は勝としては想定外のこととしてやむを得ないと思ったのであろう。実際勝海舟は戦争になった時の準備として、鳶の手を借りて江戸の町を焼き払う事まで考えていたという。
明治維新後の身の処し方と晩年の「氷川清話」のほら話で勝海舟は損をしているようだ。しかしこれは勝海舟という人の人間性の問題であり、まわりがとやかく言う事ではないのかもしれない。
しかし一方で、福沢諭吉の論にも危険なものを感じる。国家というのは人間社会の自然の形ではないというのが福沢の考えである。しかし、同じ言語や風習をもつもの、あるいは日常の交易圏のもの同士が集まって国家ができたとする。この国家は人間によりつくられたものではあるのだが、長い歴史を刻んでいく中で、もともと備わったもののように思われたり、国を愛する気持ちとか、それを統治する君主への忠誠心が生ずるという事も大事にしなければならない。そうすることにより社会に秩序が生まれ、発展もしていくのである。
そんな国家(幕府)が存亡の時に当たって、勝海舟はどうしたのか。「然るを勝氏は予め必敗を期し、その未だ実際に敗れざるに先んじて自から自家の大権を投棄し、ひたすら平和を買わんとて勉めたる者なれば、兵乱のために人を殺し財を散ずるの禍をば軽くしたりといえども、立国の要素たる瘠我慢の士風を傷うたるの責は免かるべからず。」
だがこの福沢諭吉の論を進めていくと、太平洋戦争末期、国体の護持を旗印に多くの国民を死に追いやった論理にもつながるのではないか。「殺人散財は一時の禍にして、士風の維持は万世の要なり。」という福沢の論理には道徳的ではあるが、危険なものがかんぜられないだろうか。
このようにいう福沢諭吉の廻りには一人の潔い武士の姿があった。万延元年咸臨丸の船将として勝とともにアメリカに渡った木村摂津守である。木村は維新後いっさいの公職に就かず、清貧の生活に甘んじて世を去ったという。自分より身分の低かった福沢に対し、維新後は「先生」と敬って交わった。
勝海舟という人は現実主義者であったようだ。福沢諭吉の批判に対しては何の反論もしているわけではないが、あの混乱した状況の中で、取りうるべき最良の方法をとったのだという自負はあっただろう。その後の混乱は勝としては想定外のこととしてやむを得ないと思ったのであろう。実際勝海舟は戦争になった時の準備として、鳶の手を借りて江戸の町を焼き払う事まで考えていたという。
明治維新後の身の処し方と晩年の「氷川清話」のほら話で勝海舟は損をしているようだ。しかしこれは勝海舟という人の人間性の問題であり、まわりがとやかく言う事ではないのかもしれない。