2013年04月02日

象山先生

遠来の客人Fさんを案内して松代に行ってきた。昨年のクリスマスイブに松代テレビに出させていただいて以来だから3ヶ月ぶりの松代である。
今松代は佐久間象山が注目されている。あちらこちらに象山の展示があった。大河ドラマの影響だ。奥田瑛二の名演もあって、訪れる人も多いようだ。Fさんは会津生まれで会津若松に住んでいる。「八重の桜」も見ているそうで、会津では佐久間象山というより奥田瑛二で通っているそうだ。あの世の象山これには苦笑いだろう。地元松代ではぞうざんせんせーと呼ばれているのをFさんは盛んに感心していた。会津で先生と呼ばれるのは強いていえば野口英世くらいだと。
地元松代でなくとも長野県歌「信濃国」には「ぞうざんさくませんせーも」とあるから、信州のこどもはみな佐久間象山の名前は知っている。しかしこの人がどんなことをした偉人なのか、よくはわからないのではないか。私は大人だがいまだにその偉大さをよく理解できていないように思う。
弟子の吉田松陰は、師象山について次のように述べている。「象山高く突兀(とっこつ)たり、雲翳(うんえい)仰ぐべきこと難し。何れの日にか天風起り、快望せん狻猊の蟠まるを」。松代にある象山(ぞうざん)は小山のようなものだが、松陰が見た佐久間象山は仰ぎ見るような存在であったのだろう。象山は学問を身につけるだけではもの足らず、実際の行動によって理想を実現することを弟子に求め、自らもそれを実践した。松陰に海外への渡航を勧めたのは象山であったし、書物から得た知識で大砲も電信機も作ってみた。
罪を許されて上洛した後も、自らの信ずる道に従って公武合体を進め、天皇を江戸に遷そうとさえ考えていたようだ。象山にとって公武合体は方法であった。外国の脅威が迫る中、尊皇派と佐幕派が全面的に戦うことを避けるための方法論であったようだ。
象山が暗殺された数年後、土佐の坂本龍馬が大政奉還を画策したのも象山と同じ発想から生まれた方法論であったようだ。内戦を避けるための大政奉還も薩長に倒幕の口実とされ、龍馬は暗殺されてしまう。タイプは違うが、象山も龍馬も内戦を避けるために行動したという点では共通項があるのではないか。
象山の弟子であり義兄である勝海舟は、明治になっての象山評で「佐久間象山は、もの知りだったよ。学問も博し、見識も多少もっていたよ。しかしどうもほら吹きでこまるよ。」と述べているが、海舟にとっては象山の実践論は詰めが甘い「ほら」に思えたのだろう。実践面では弟子海舟が一枚上であるようだ。  

Posted by 南宜堂 at 08:23Comments(0)松代

2013年03月19日

象山暗殺

大河ドラマ「八重の桜」の視聴率が低迷しているようだ。昨日見えたお客さんが言っていた。久々に私は毎週見ているドラマであるのに残念だ。どうも内容が説明的すぎて面白くないのだという。あの時代というのは、様々な政治的な事件が次から次へと起こって、それを描いているとどうしても説明的になってしまう。歴史はドラマではないのだから仕方ないのだが、ドラマを作る側としては気がかりなところだろう。NHKといえども視聴率は気になるはずだ。
先日の放送の冒頭で佐久間象山が暗殺された。上洛してからの象山が何をしていたのか、私もうまく理解できていなかった。暗殺されたのも開国論者であったから程度に思っていた。実行犯が川上彦斎である。人斬りの異名をとっていたというから無闇に人殺しをしていたのだろうくらいに思っていた。ドラマでもそのあたりはしっかりとは描いていなかった。主役ではないのだから当然ではあるのだが、象山贔屓には不満だった。
一橋慶喜が象山を上洛させたのは、頑迷な攘夷を唱える公家たちへの工作に当たらせようとの腹づもりがあったようだ。上洛後の象山が、頻繁に中川宮や伏見宮の屋敷に伺候していたのはそのためであったのだ。そしてここまでは慶喜も求めなかったのだと思われるが、開国の詔勅を出させるための工作も行っていた。さらには政情不安な京を避け、孝明天皇を彦根に遷座させ、そのまま江戸に移すことも考えていたようだ。この計画は会津藩の山本覚馬や広沢安二郎にも話していたらしい。そのために大津に着陣中の松代藩主真田幸教に会い、天皇の琵琶湖渡御の警備を依頼しようとした。しかし、これは藩の執政真田志摩により阻まれてしまう。
佐久間象山が暗殺されたのはそんなさなかであった。単なる開国論者だからということではなく、これら一連の象山の動きを封じようとの攘夷派による計画的な犯行であった。さらには「小説佐久間象山」の著者井出孫六氏は松代藩の関与も示唆している。当時松代藩は二派に別れ政治闘争を繰り広げていた。象山もその渦中に巻き込まれていて、執政真田志摩は政敵であった。志摩が部下である長谷川昭道を使って、象山の情報を攘夷派に漏らしたのではないかというのだ。長谷川昭道は象山のライバルで、この時京にいた。象山に面会を求めたが拒絶されている。
ドラマの中で象山暗殺後、佐久間家が取り潰しになったのを山本覚馬が憤慨しているが、こんな事情があって象山は排斥されたのである。  

Posted by 南宜堂 at 10:34Comments(0)松代

2012年08月30日

日暮硯のこと

まだ十代であった幸弘は、恩田木工を抜擢して勝手掛を勤めさせるにあたって入念な根回しをしております。これがまた、今でいう中学生の子どもとは思えないような周到さです。
幸弘は江戸の藩邸に親戚筋の主だった人たちを招き、今の藩の窮状を救えるのは恩田木工しかいないことを力説します。しかし、木工はまだ39歳で家老の中ではいちばんの末席にいる身であり、自分もまだ十代であるので、木工を勝手掛に抜擢しようとすれば、必ずや老臣たちに反対されるにちがいありません。そこで、皆様にお口添えいただきたいのでどうかよろしくと懇願したのです。
親戚一同も、松代藩の窮乏はよく知っていましたし、この現状では誰がやってもなかなかうまくゆくものではないということがわかっていましたので、ここはひとつこの若殿の思い通りにやらせて見ようではないかということになって、協力することを約束するのです。
幸弘は家臣から反対の声が上がらないような環境をつくったわけで、若者らしからぬ老獪な方法を思いついたのであります。
「日暮硯」のここまでの展開は、ちょっと考えれば矛盾だらけで、とても実際にあったこととは思えないのですが、幸弘も木工も実在の人物であることは間違いありません。家老職末席の木工が藩政のトップに立ったことの合理的な説明として、この話が作られたのではないかと思われます。そして、話は藩士全員が江戸藩邸に呼び寄せられるという後半に続くのであります。
  

Posted by 南宜堂 at 02:21Comments(0)松代

2012年08月28日

殿様の度量

一代の君あれば、又一代の臣下あり。
松代藩家老恩田木工の事績を記した「日暮硯」の中の一節です。今度の本の帯に使っています。この藩史シリーズは、帯にその藩を象徴するような名言を載せるのだそうで、この言葉がえらばれました。出版社のスタッフの皆さんとの話で、今風ではありませんね、というようなことになったのですが、今の世の中、あまり上下関係を言わなくなりました。親と子、先生と生徒、上司と部下、友だちのような関係がいいのだとされるのが今風のようです。
一代の君とは、松代藩第六代藩主真田幸弘のことです。この人はわずか十三歳で藩主の座についています。その聡明さを語るエピソードとして、鳥籠の話が冒頭にあるのです。
幸弘14、5歳のこととされるこの話は次のようなものです。
ある日、家来の一人が気晴らしに鳥を飼うことをすすめます。幸弘はそれでは万事任せるから立派な鳥籠を作るようにと家来に命じます。出来上がった鳥籠を前に、幸弘はちょっとそこに入ってみないかと家来に言います。やがて煙草やらお茶やら菓子やら、食事までが運ばれ、お前はずっとそこで暮らすがよいと家来に命じます。これには家来も驚いて、それだけはご勘弁をと泣いて懇願します。
そんな家来に、鳥の自由を奪うことの愚を説くわけですが、その時言葉で言って聞かせずに、鳥籠に飼われることの苦しさを身をもって体験させるのです。
実際にそんなことがあったのかはわかりません。奈良本辰也さんは似たようなことがあったのだろうとしていますが、松代藩で鳥を飼うという習慣がなくなったという話も聞きません。それに、このエピソードは有名な「徒然草」にあるのです。「日暮硯」の著者は吉田兼好が好きだったらしく、タイトルからして「日暮らし硯に向かいて」からとっているようです。この辺に「日暮硯」の作者を探る鍵があるような気もします。
それはともかく、こんな賢君がいたのだから、その君に見出されて恩田木工のような人が活躍できたのだろうというわけです。
現代書館の編集の方は、「上のものが範を垂れ、下のものが見習う」というように解釈されていますが、私は木工に自由に藩政をやらせた度量こそが幸弘の賢君たる所以ではないかと思っています。「やってみなはれ」の精神です。
  

Posted by 南宜堂 at 14:06Comments(0)松代

2012年08月04日

お安梅の伝説

皆神山の天狗の話が出ましたので、尼巌山のお姫様の話も書き留めておきます。

建久八年春、源頼朝は善光寺に参詣したが、この時地蔵峠を越えて松代の地にも来られた。その頃、この地を治めていたのは尼飾城に住む東条左衛門尉義年の後家の尼将軍のであった。その一人娘にお安御前というものがおり、絶世の美人であると城下でも評判であった。頼朝を歓待すべくその宿舎に至り給仕などを勤めたが、頼朝もその美しさに心動かされ、お安を鎌倉に伴うことになった。
お安は頼朝の寵愛を一身に受けたが、正室の政子は嫉妬深い方で、側室が懐妊するとこれを怨んで殺させてしまった。このことを聞いたお安はすっかり恐ろしくなってしまった。毎日毎日を庭に咲いた紅梅をながめては「実をな結びそ」と唱えていた。その願いが通じたのか、不思議なことにこの紅梅は花をつけても決して実をつけることはなかった。またお安も懐妊することなく二年が過ぎた。
正治元年頼朝は五十三歳にして没した。お安は松代に帰ることを許され、かの紅梅を根から掘って故郷に持ち帰った。お安はこの梅を自らの住まいとした別荘の庭に植えた。その梅は「お安梅」と呼ばれ松代に帰ってからも実をつけることがなかったので、人々は不思議がったという。今ではその梅も枯れてしまい、「御安町」の名だけが残されている。
  

Posted by 南宜堂 at 22:12Comments(0)松代