2013年12月06日

新小路の西洋軒

 今では誰もその名を憶えていないような小路もかつては名前があり、その名前には由来がありました。小路といえば「善光寺七小路」というのが昔から定められていましたが、そこは由緒ある町であったのでしょう。
 その七小路には入っていませんが、長野市ではじめて本格的な西洋料理を出したという西洋軒のあった新小路、今では誰もその名を呼ぶ人がいなくなりました。「新小路の西洋軒」といえば、どのへんなのか昔は見当がついたようです。昭和初期の写真を見ますと、清水屋さんの三階建ての建物の軒に「西洋料理 撞球場 大門町西洋軒」の看板が見えます。余談になりますが、この新小路、大門町や西町の大店の旦那衆が権堂に通った道ではないかと私は密かに思っております。根拠はないのですが、花街権堂へのアプローチとしてふさわしい雰囲気があったのではないかと想像するのです。
 鉄道の開通する前のことですが、明治一八年頃から長野にも西洋料理を食べさせる店ができてきました。中でも明治一九年に新小路に開業した西洋軒は長野ではじめての本格的な西洋料理を出す店でした。
 この西洋軒のことが、鉄道開通から四ヶ月ほど過ぎた九月の新聞に紹介されています。 
「当地は仏地なれば洋風の生臭料理は行はれずとの偏説は取るに足らぬとするも普通上よりして一体洋食にはまず冷淡の感あるところなりしが二三年来漸く之を欲するの傾き出でて是迄間業に之を為し又息めたる其中にも今日に在りて継続之が営を為すの烹店もあり且此節は鉄道の便に依りて内外都人士紳商等の出入通行の頻繁なるより又市在の人種中にも時好を試みんとする向ありて洋風料理もをさをさ多量を要するに至りたり彼の新小路なる西洋軒には昨今一日に平均二十五名乃至三十名の来客在りて其種類を大別すれば官員体が一分遠来人が一分鉄道員が二分余乃六分は土地市在の人種にて概して商人が多きに居る由又折々来長する貴顕及び外人等は一泊中にも二度三度至り食すること往々ありて或は洋風旅舎室の無きを惜しむ人少なからずといへり何様当地鉄道は昨今出張所になりたる事にもあれば随って洋風旅館は設立も必要なるべし」(「信濃毎日新聞」明治二一年九月六日)
 鉄道が開通してさまざまな人が長野を訪れるようになりました。それらの人たちが西洋軒の主な客だったわけですが、地元の人たちの中にも新しもの好きな人たちがいたとみえ、だんだんと西洋軒の客が増えていったということなのでしょう。西洋軒ではどんな料理が出されていたのか、少し後になりますが明治三八年の新聞広告に「チキンライス三〇銭」「ライスカレー二〇銭」とありますので、今でいう洋食屋さんのようなメニューだったのでしょう。



Posted by 南宜堂 at 22:06│Comments(0)

 
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