2014年03月11日
「信濃の国」考 2
浅井洌が師範学校の教師となって長野に来たのは明治一九年のことである。それまで浅井は松本にあって開智学校や松本中学の教師をつとめていた。明治維新までは松本藩の藩士であった。長野に来た当初は善光寺に近い立町に住んでいたが、その後妻科に移った。
その浅井が信濃教育会の依頼により「信濃の国」を作詞した経緯は先に記した。その後、明治三二年、北村季晴が長野師範の教師になって青森から赴任してきた。この時北村の下宿の世話をしたのが浅井洌だった。浅井はたまたま自分の家の隣に格好の家を見つけ北村に紹介した。こんなことから二人の交友がはじまり、現在の「信濃の国」が生まれたというわけである。
その北村が「信濃の国」に曲をつけるようになったいきさつを再び、浅井洌の回想から振り返ってみよう。
「次いで明治三十六、七年頃女子師範生徒(男女師範の併置)が秋の運動会に此の歌を遊戯に用いましたが、依田君の作曲あることを知らず、その時の音楽教師北村季晴君に作曲を請いてそれを運動会の日に発表しました。それから此の歌漸次広まり小学児童は勿論、子守も丁稚も途中を歌い歩くようになりました。云々」
この回想文から見る限り、運動会の遊戯用にと浅井が北村に作曲を依頼したかのように述べられているが、この時浅井がすでに曲があることを知らずに北村に作曲を依頼したというのはどうしても浅井の記憶違いというほかはない。なぜならば、信濃教育会からの依頼は作詞と作曲をセットでなされたものであり、そのことは浅井は知っていたはずだからだ。昭和九年というと浅井の晩年である。記憶が薄れていたのかもしれない。
中村佐伝治という人の書いた『信濃の国物語』という本によると、浅井と北村はたまたま下宿が隣同志で親しく行き来していたようで、浅井の家を訪問した北村が「信濃の国」の詞を目にし、「素晴らしい詞だから是非自分に作曲させてほしい」と懇願したと書かれている。
真相というのは百年以上も時がたってしまうとなかなかわからないもので、当事者たちも亡くなっているし、話を伝え聞いた人たちも年をとってしまう。ましてや「信濃の国」のような超有名曲になると、その成立の過程は半ば伝説となってしまいがちだ。
当時の関係者の人たちの証言を総合して判断するならば、北村作曲の「信濃の国」が運動会の遊戯用に作曲され、発表されたということは間違いないようだ。おそらく校長などから運動会用に曲をつくってくれるように依頼されていた音楽教師北村は、たまたま浅井の詞を見てひらめくものがあったのではないか。彼は後に上京しプロの音楽家になったくらいの人だから、その感受性は人一倍鋭かったことだろう。
その浅井が信濃教育会の依頼により「信濃の国」を作詞した経緯は先に記した。その後、明治三二年、北村季晴が長野師範の教師になって青森から赴任してきた。この時北村の下宿の世話をしたのが浅井洌だった。浅井はたまたま自分の家の隣に格好の家を見つけ北村に紹介した。こんなことから二人の交友がはじまり、現在の「信濃の国」が生まれたというわけである。
その北村が「信濃の国」に曲をつけるようになったいきさつを再び、浅井洌の回想から振り返ってみよう。
「次いで明治三十六、七年頃女子師範生徒(男女師範の併置)が秋の運動会に此の歌を遊戯に用いましたが、依田君の作曲あることを知らず、その時の音楽教師北村季晴君に作曲を請いてそれを運動会の日に発表しました。それから此の歌漸次広まり小学児童は勿論、子守も丁稚も途中を歌い歩くようになりました。云々」
この回想文から見る限り、運動会の遊戯用にと浅井が北村に作曲を依頼したかのように述べられているが、この時浅井がすでに曲があることを知らずに北村に作曲を依頼したというのはどうしても浅井の記憶違いというほかはない。なぜならば、信濃教育会からの依頼は作詞と作曲をセットでなされたものであり、そのことは浅井は知っていたはずだからだ。昭和九年というと浅井の晩年である。記憶が薄れていたのかもしれない。
中村佐伝治という人の書いた『信濃の国物語』という本によると、浅井と北村はたまたま下宿が隣同志で親しく行き来していたようで、浅井の家を訪問した北村が「信濃の国」の詞を目にし、「素晴らしい詞だから是非自分に作曲させてほしい」と懇願したと書かれている。
真相というのは百年以上も時がたってしまうとなかなかわからないもので、当事者たちも亡くなっているし、話を伝え聞いた人たちも年をとってしまう。ましてや「信濃の国」のような超有名曲になると、その成立の過程は半ば伝説となってしまいがちだ。
当時の関係者の人たちの証言を総合して判断するならば、北村作曲の「信濃の国」が運動会の遊戯用に作曲され、発表されたということは間違いないようだ。おそらく校長などから運動会用に曲をつくってくれるように依頼されていた音楽教師北村は、たまたま浅井の詞を見てひらめくものがあったのではないか。彼は後に上京しプロの音楽家になったくらいの人だから、その感受性は人一倍鋭かったことだろう。
Posted by 南宜堂 at 20:42│Comments(0)