2008年04月30日

出開帳

 江戸は人口が集中し、さまざまの情報が集積する大都市でしたから、善光寺に限らず全国の有名諸寺が出開帳を行いました。喜多村信節の「嬉遊笑覧」には善光寺、清涼寺、成田山新勝寺が多くの参詣者を集めたとあります。
 善光寺の出開帳が行われた深川の回向院は、多くの寺院が出開帳を行った寺で、多くの人を集めるための立地条件がよかったようです。後の大相撲はこの回向院の勧進相撲その起こりです。
 元禄五年の最初の江戸出開帳は、会期は六月五日から六〇日間ということではじまったのですが、あまりの人出の多さに五五日で閉帳しました。善光寺から出張したのは、前立本尊をはじめ、釈迦涅槃像、御印文、御灯明などでした。
 元禄七年、こんどは京都真如堂と大坂天王寺で出開帳が行われました。京都の出開帳では、一万両以上の賽銭が集まったということです。その後、幕末までに三都開帳は二度、江戸だけの出開帳が二度、さらに回国開帳が四度行われています。回国開帳というのは、全国を行脚して開帳を行うものです。これらの開帳は、すべて大成功というわけではなかったようですが、全体としては多くの浄財を集め、善光寺信仰の普及にも寄与しました。
 落語「お血脈」は、そんな出開帳が盛んに行われた時代背景の中で生まれたものです。それにしても、善光寺信仰が江戸時代になってこれほどまでに広がっていった背景には、中世に活躍した聖と呼ばれた回国の宗教者の活躍があったからです。
 聖は全国を回って善光寺如来の功徳を伝える方便としてさまざまな物語を作り、民衆に語りかけてきました。例えば「善光寺縁起」であり、説経「かるかや」であり、「平家物語」であり、「曽我物語」です。これらの物語は、当初は仏教説話として語られてきたものであろうと思うのですが、そのうちに物語は仏教の教説を離れて、より面白いものにより涙を誘う内容にと変質して行きました。それと同時に語り手である聖たちの一部も専門の芸能者へと転換していったものと思われます。説経師、琵琶法師などです。
 話が単純化してしまいましたが、大筋の流れとしてはこんなことではなかろうかと思われます。語り手も物語も仏教色を薄めていくことで、民衆の娯楽として浄瑠璃とか歌舞伎とかに育っていったのでしょう。落語もそのおこりは寺などで行われていた法話、説教であったということがいわれています。
 仏教色は薄まりましたが、原型としては残っているわけですから、善光寺如来は三国伝来のありがたい生き仏であり、たとえ信濃の善光寺にお詣りできなくとも、その御印文を額に押してもらえれば、極楽往生が約束されるのだという話が広まっていったものでしょう。そんな善光寺信仰の大衆化があってはじめて出開帳の盛況というものも理解できるというものです。  

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2008年04月29日

鈴木オートはいま

 どうなっているのだろうかと思うことがあります。ご存知の方にはおなじみの「三丁目の夕日」の舞台となった東京下町の自動車修理工場です。お父さんの夢は大きなビルを作ってそこを本社にということだったようです。
 モータリゼーションの波にうまく乗れれば、自動車メーカーのディーラーとなってビルも夢ではないかもしれません。勤勉なお父さんのことですからきっとと思いたいのですが、まじめに働くだけでは成功するわけにはいかないのが今の世の中です。もしかしたら、時代の波には乗り切れず、未だに鈴木オートとして下町の修理工場のままなのかもしれません。
 生業と書いてなりわいと読ませます。自動車の修理工であれ、大工さんであれ、お百姓であれみんななんらかのなりわいを持っていて、そんなものを身につけておけばなんとか生活が成り立った時代がありました。
 カメラマンとかデザイナーとかいったカタカナのなりわいをもつ人だって、ぜいたくをいわなければそれで暮らしていけたのです。商人もしかりです。
 しかし、いまわたしのまわりにいるいわゆる自営業者という人たち、カメラマンとか店を開いている人とか、そんな人たちの多くがダブルワーカーになっています。本業だけでは食えないので、生活を維持するためにいろいろなアルバイトをしているのです。しかも、彼らは勤め人の世界でいったら管理職になるような年頃の人たちです。
 彼らはおそらく若いとき「鶏頭となるとも牛後となるなかれ」とか、自分は勤め人には向いていないからとかいうような理由で自営となってがんばってきた人たちです。
 今朝の信濃毎日新聞に明日松本で、非正規雇用の労働者のメーデーがあるという記事をみつけました。彼らの待遇改善も大きな課題でしょうが、本業で生活できる世の中であってほしいというのも切実な願いです。  

Posted by 南宜堂 at 21:40Comments(0)

2008年04月28日

もっと冷静に

 この週末は東京中心で動いているこの国には珍しく、片田舎が注目された不思議な日々でした。土曜日は、北京オリンピックの聖火リレーが行われた我らが長野市が全国に発信されね日曜日は衆議院の補欠選挙が行われた山口県の岩国周辺のことが注目されていました。
 聖火リレーはものものしい警戒の中で、小競り合いはあったものの無事に終了したのですが、長野市民の一人としましてはこんなものは見たくなかったというイベントでした。
 一方の山口県で行われた選挙は民主党の勝利に終わりましたが、どうもガソリンは再値上げが確実のようですし、後期高齢者医療制度というのも維持されるようです。
 最近の選挙というのは、揺れが激しいというか前回の衆議院選挙は自民党が圧勝し、今回は民主党、このまま総選挙となればおそらく民主党が勝つのでしょう。
 最近の選挙というのはどうも威勢のいいことをいったり、官僚の攻撃をしたりして民衆の怒りに火をつけたほうが勝つようです。私も個人的には今の与党のやっていることというのはどうしても納得できない、弱いものいじめの政治だとは思いますが、こんな形で民意が形成されていくというのはまずい傾向ではないかと思います。もっと冷静にもっと論理的に政治を考えないと、ポピュリズムというのに陥って、気がついたら全体主義ともなりかねません。  

Posted by 南宜堂 at 23:58Comments(0)

2008年04月26日

憑依と霊夢

 憑依にしろ霊夢にしろあまり普段はお目にかかることのない言葉で す。憑依なんてのは読み方だってよくわかりません。辞書で調べると、
憑依 ひょうい  霊などがのりうつること。(三省堂国語辞典)
霊夢 れいむ 神や仏があらわれておつげをする、不思議なゆめ。 (三省堂国語辞典)
ということです。邪馬台国の卑弥呼の行った政治は、自らを依りしろと して神が乗り移って託宣をするというものであったようです。現代でい えば、青森県下北半島の恐山のイタコのことを想像すればいいでしょう か。
 善光寺縁起にあるように、本田善光が芋井の里に善光寺如来をまつったの は如来の意思でした。託宣があったと善光寺縁起ではいっております が、これは如来が善光に憑依して自らの意思を伝えたと解釈していいの でしょう。こういうことがたびたびあったので、善光はシャーマンなの ではないかという人もいます。また、女性の方が憑依しやすいというこ とから、善光の妻弥生が如来の託宣を伝える巫女であったのではないか とともいわれています。
 さて、一方の霊夢についてですが、豊臣秀吉が善光寺如来を方広寺の 本尊として迎えたのは霊夢によるといわれていますし、信濃にお返しし たのも秀吉の霊夢に如来があらわれてそう伝えたからだというのです。
 憑依とか霊夢とかいった現象を信ずるか信じないかということになり ますと、個人の問題ですが、例えば秀吉の例なんかでいいますと、これ はあきらかに霊夢というものを利用しているのではないかと思ってしま います。
 このたびの善光寺の聖火リレー出発点の辞退についてはあいまいさがまかり通る中でなかなかの決断であると思ったのですが、同じ仏教者が弾圧されるのをみかねてとか混乱を避けるためとかいわずに、如来が霊夢にあらわれたのだということにしたらもっと説得力があったのではないでしょうか。とはいうものの、こういう世の中になってまいりますと、如来の託宣だとか霊夢に現れたとかいってもおそらくは信じる人はまずいないのではないかと思うのです。
 その聖火リレーのニュースを見ていて思ったのは、マスコミのみなさんはこの状況を扱いかねているのかなということでした。一方で平和の祭典であるオリンピックの聖火を冒涜することはゆるされないということと、少数民族への弾圧もまたオリンピックの精神とは相容れないのではないかというジレンマ。最終的にはせっかくやるんだから平穏に済んでほしいというあたりに落ち着いたのでしょうが、でも画面からは何か起きないかという期待感がこちらにも伝わってきたような気がします。小競り合いがあったくらいでリポーターはえらく興奮していたようですから。
 思えばテレビのキャスターとかコメンテーターとか呼ばれる人たちって時々憑依したシャーマンのように見えたりするのはなぜなのでしょうか。妙にもったいぶって国民の良識のようなものに憑依していたりするのではないでしょうか。記憶に新しいところでは山口県光市の母子殺害事件の犯人への死刑判決の捉え方。どのテレビも判をおしたように被害者の家族の主張を中心に番組を構成していました。この方は私なんかが見ていても、若いのに冷静な判断に基づいて論理的に話せる人だとは思うのですが、はたしてこういう全部が右へならえのような伝え方でいいのだろうかという疑問をもってしまいました。
  

Posted by 南宜堂 at 23:34Comments(0)

2008年04月24日

狂言「八尾」のこと

 河内国(現在の大阪府)八尾に住んでいた男が死んでしまい、あの世へいくためのわかれ道である六道の辻で休んでおりました。そこに閻魔大王が現れます。閻魔様ががなぜここまでわざわざやってきたのかというと、近ごろ仏教が盛んになって、信者を極楽に送ってしまうので地獄に来る亡者がめっきり少なくなってしまった。そこで、今日は六道の辻に出てまいって地獄に責め落とす罪人をスカウトに来たというわけなのです。
 いいカモがいたとばかり、八尾の男を責めるのですが、彼は閻魔様の前に八尾の地蔵の手紙を差し出します。閻魔様と八尾の地蔵はむかしは言い交わした仲、なつかしやと手紙を受け取る閻魔様。そこには、この男は自分の檀那である又五郎の小舅であるので極楽にやって欲しいと書いてありました。頼みが聞かれぬ場合は地獄の釜を蹴り割るというのですから穏やかではありません。しかたなく閻魔様は八尾の男を極楽へと送ることにしたというのです。

 狂言は能と同じくらいに古い歴史がある芸能です。この狂言「八尾」がいつごろ成立したものかは不明ですが、落語「お血脈」よりもまだまだ古い時代から地獄や閻魔大王が茶化されていたようです。私たちは平安・鎌倉時代の善光寺信仰の熱心さをいくつかの例をあげながら見てきました。一方で江戸時代の善光寺の人気は大変なものだったらしく、参拝客の数も伊勢神宮に次いで全国で二位ということでした。中世の大塔合戦の時代から三百年が過ぎ、善光寺はさらに多くの善男善女の信仰を集めるようになったわけですが、大塔物語に描かれる善光寺信仰と「お血脈」に描かれる善光寺信仰とはその性格においてだいぶ変わってきているように思われます。
 落語ですから信仰を茶化すような点は否定できませんが、御印文頂戴がはやったという風潮は確かにあったわけで、信仰が個人的で具体的なものから大衆的で普遍的なものに変化したといったらいいのでしょうか。その変化が善光寺をより親しみやすい寺にしたのでしょう。  

Posted by 南宜堂 at 21:26Comments(0)