2007年09月30日

ブログの功罪

 知り合いの印刷屋さんと話してましたら、最近仕事がめっきり減ってしまったとぼやいておりました。パソコンの普及でちょっとした印刷物は個人でできるようになってしまったからなんでしょうか。
 パソコンとインターネットの普及は私たちの生活をずいぶん変えてしまいました。本などネットで探した方が確実です。ブログだって、いままでは個人が不特定多数の人に向けて情報の発信など思いもよらなかったのに、誰もが簡単にできるようになりました。もう書くという行為についてはプロとアマの境界が限りなく曖昧になってしまっています。ベストセラーがネットの書き込みから生まれる時代です。しかし、簡単にできるということは弊害も生みます。出版してもらうために一生懸命努力した昔の文筆業志願者はそれなりの研鑽を積み、自分の書くことの影響を考えて書いていました。今はそうとうにいい加減なこと、個人的な思いこみによる中傷もかんたんにできますし、悪意を込めて行えば、場合によっては人を自殺に追い込むことだってやりかねません。ネットによるいじめの話を聞くといたたまれない気持ちになります。
 私たちの社会が成熟しきれないうちにそんな状況になったのか、それとも人間というのは常にそういう悪意を内包しているのか。個人で情報を発信しようという時、考えてみなければならない問題だと思います。  

Posted by 南宜堂 at 14:37Comments(0)

2007年09月29日

信濃者

信濃では月と仏とおらがそば
 と一茶も詠んでいるように、と言おうと思ったらこの句は一茶のものではないのだそうです。そもそもこれは俳句ではないのです。季語が多すぎる。
 一般に季語があれば俳句、なければ川柳というのだそうですが、一茶の句など川柳といってもいいほどひねりがきいております。
雪降れば椋鳥江戸へ食いに出る
 一茶の俳句かと思いきや、これは川柳です。江戸の人たちは信州人のことを椋鳥といって馬鹿にしていました。その理由はよくわかりません。冬になると、食い扶持を減らす為、雪深い信濃から江戸へ出稼ぎに出る人が多く、そんな人たちのことを詠んだ川柳です。
 信州人は椋鳥のほか、そのものズバリ「信濃者」とか「お信」とか呼ばれて、江戸川柳には大食いの代名詞として登場します。
冬の内月三斗づつ食い込まれ
信濃者三杯目からは噛んで食い
人並みに食えば信濃は安いもの
 こんな川柳を並べれば、若い女性からは「何よ失礼な」と言われそうですが、私ではなく江戸の人たちが言っていることですから誤解のないように。それにしても信州人は実際に大食漢だったのでしょうね。なぜなのか、山仕事をしている者が多かったので大食いになったと説明している本もありますが、実際は白米がめずらしかったのではないのでしょうか。山間地で高地ですから、そばや雑穀は穫れても米の収量は他国に比べて低かったものとおもわれます。おまけに出稼ぎに行く人たちの多くは、米の穫れない地方から出かけていったのです。しかし、川柳にもありますように、信州人はよく働いたといいます。これで大食いでなければ本当に助かるのだがと詠んだ川柳も多くあります。
 「甲州の山猿 信州の椋鳥」と言われたように、江戸では田舎ものはさげすまれていたようです。そんな伝統は明治になっても続いていました。そんな中「志をはたしていつの日に過帰らん」と勉学に励んだ信州人は、いつのまにか「信州人は教育熱心」と尊敬されるようになったのでした。めでたしめでたし。
 大食漢より教育熱心のほうが尊敬されるし正しい生き方ということになりますか。
  

Posted by 南宜堂 at 23:57Comments(5)

2007年09月27日

芭蕉の善光寺詣り


 松尾芭蕉は「更科紀行」の旅で善光寺にも詣り、次の句を残しています。
月影や四門四宗も只一つ
 この句は善光寺の性格をよく表したものとしてガイドブックなどにも載っています。つまり、善光寺は一宗派にこだわることのない寺で、すべての人に門戸を開いているということのたとえによくこの句が使われるというわけです。四門四宗というのは仏教用語で、仏門にはいるためには四つの門があり、仏の教えにも四つの宗派があるのだが、善光寺はそれを越えてただ一つの仏の道をあらわしているということなのでしょう。
 芭蕉がお詣りした善光寺の本堂は、私たちが現在見ているものではありません。善光寺の本堂は度重なる火事で何度も建て直されており、現在の本堂は宝永4年(1707)に完成したものです。芭蕉が参詣した頃の本堂は寛文如来堂といって、現在のものより小振りで場所も今の仲店延命地蔵のあたりにあったのです。
 とまあそんな話はみんな善光寺関係の本を見れば載っていることで、ことさら目新しいことではありません。ついでにかつて善光寺には四方に門があり、それぞれに名前があったということなのですが、その資料がみつからないのでこのことはちょっと断定的には申し上げられません。
 話はそれましたが、芭蕉の善光寺詣りにもどしまして、目的は姨捨の月見ですからまあ善光寺詣りは付録のようなもの、せっかく信濃に来たのだからと立ち寄ったものなのでしょう。しかし、天下の芭蕉翁です。来たからには何か一句ということになります。おそらく善光寺にて詠めるなどということで後世まで残るに違いない。ここで芭蕉に緊張が走ったのだと思います。
 また脱線しますが、最近のプッチンプリンのコマーシャル、しかめつらしいおじさんたちが会議をしています。そこでひとりのおじさんが「ブッ」とやるあれですが、芭蕉もあんな風にやったら受けたろうになと思います。
 さて、芭蕉先生善光寺でどんな句をひねるのか、まわりが固唾を呑んで見守ります。そこで「松島やああ松島や松島や」的な句を披露したら面白かったろうにと思うのですが、そこは俳聖そんなわけにはいきません。
 オーソドックスに善光寺を讃える句を披露し、一座に「ほー」という安心感が走るというわけなのですが、そんな緊張感の中で詠んだであろう句はあまりおもしろくありません。さすが芭蕉で善光寺の本質をとらえあとあとの文献にまで引用されるような句には違いないのですが、個人的にはあまり良い句とは思いません。
身にしみて大根からし秋の風
あるいは一茶の
負さって蝶も善光寺詣かな
なんて句のほうが素直で好きです。俳聖もたいへんなんだと思います。タイガースの藤川と一緒ですから、失敗は許されないわけです。常にパーフェクトがもとめられるわけですから。そんな中でも完璧な仕事をしてきたからこそ後世に残る松尾芭蕉があるのかもしれません。
写真は芭蕉面影塚

  

Posted by 南宜堂 at 06:58Comments(0)

2007年09月26日

十六夜の月


 今夜は十六夜、月は出ているのでしょうか。
いざよいもまださらしなの郡哉  芭蕉
 貞享5年、松尾芭蕉は上方から江戸への帰りを木曽、姨捨、善光寺という遠回りの道を選びました。中秋の名月を姨捨で見るためです。芭蕉は風流の人ですから、なぜ月は姨捨で見なければならないかということはよく知っていました。「大和物語」には有名な姨捨伝説とともに次の歌が載っていて、芭蕉の旅はその思いにひたるための旅でした。
わが心慰めかねつ更級や姨捨山に照る月を見て
 姨捨山は現在の冠着山のことではないかといわれています。昔の旅というのは、今のような物見遊山の旅は少なく、伊勢や善光寺に詣る信仰の旅か、芭蕉のような風流を求めての旅が主流であったようです。芭蕉の更科紀行の旅は姨捨伝説を求めての旅、奥の細道の旅は歌人西行の跡をたどる旅でした。
 現代の旅はどうしても即物的になってしまっているようで、八幡原などでも、信玄謙信一騎打ちの像があるからいいようなものの、そうでなければただの原っぱですから、ここで川中島の戦いが行われたのだといっても「まさか」ということになりかねません。甲陽軍鑑の語りでも聞き、戦国のもののふの心を思って和歌か俳句でもひねるというツアーなんか誰か企画しないだろうかと思います。誰も参加しませんか。
 さて、芭蕉が中秋の名月を姨捨で見た時の句は有名なこの句です。
俤や姨ひとりなく月の友
  

Posted by 南宜堂 at 22:57Comments(0)

2007年09月25日

ローカルスター

 ナガブロ管理画面というのを見たら、前回で投稿件数が200になっておりました。そして、見ていただいた方も延べで5000人を越えているようです。日記など宿題以外、生まれてこの方つけたことのない身としましては、まさに驚異的な持続力です。何ごともそうですが楽しくなければ続かない。駄文を書くことが好きなのでしょう。それと年を取って衰えたとはいえ、野次馬根性が健在ということでしょうか。
 前回のテレビの話にひっかけるなら視聴率のたいへん低い番組ということになるのですが、読んでいただいてたまにご意見をいただけることが喜びで、老人の孤独もいやされる思いです。ブログというのはそんな効果があるのかもしれません。テレビだと受けるだけの一方通行ですが、ブログの場合は時にはコメントがいただけて会話が成立します。「老人よテレビを消して、パソコンを開こう」
 他の方のブログを見ての感想です。写真を中心に短いコメントを入れたものが多いのですが、若い方のセンスに感心すると共に見ていて楽しいですから、ブログの主流はこのへんになるのかなとも思います。私のブログは文字ばかりで、ブログ向きではないようですが、結局ふだんしゃべることもない生活をしているとこんなところで饒舌になるようです。
 これは老人のたわごとと思ってお聞きいただきたいのですが、毎日ブログのランキングというのが載っているのですが、これはどうやって決めているのでしょうか。見た人の数ということなのでしょうか。競うということは人がもって生まれた本能のようなもので、これがなければ人類の進歩も無かったわけですが、時々見ていて辛くなるようなこともあります。ブログというのはあくまでも個人的な意見の発信であって、ウケはあまり意識しなくてもいいんじゃないかなと思っております。どうでしょうか。  

Posted by 南宜堂 at 09:54Comments(1)