2010年08月31日
風雲烏城 19
「ここが永禄四年に大きな戦のあった川中島か」
一面に広がる黄金の田を見ながら三好清海入道がつぶやいた。
上田城下を立った猿飛佐助、清海、禰津甚八、由利鎌之助の四人は、千曲川に沿って下って、今犀川との合流地点である川中島にたどり着いたところである。善光寺別当より諸国通行自由の善光寺聖の通行手形を清海に授けてもらうために寄り道をしたのだ。
「清海のためにとんだ寄り道になってしもうたわい」
佐助は不平を言ったが、
「まあまあ、わしはまだ善光寺に参ったことがない。ちょうどいい機会じゃないか」
由利鎌之助が取りなして、一同善光寺に向かうことになったのである。
時は八月、秋の盛り、頭を垂れた稲穂が、午後の陽に輝いている。
「百姓は生きるためには米を作らにゃならんからな。戦で踏み荒らされた田だって、何年もすれば立派な水田にもどるさ」
甚八は眩しそうに稲の波を見やった。
「あの戦では、武田典厩様、望月盛時様、山本道鬼様も命を落とされた激しい戦いじゃった。何せこのあたりの小川が血の色に染まったのが、昨日のことのように思い出されるわ」
由利鎌之助が誰もいない田に向かって手を合わせた。九死に一生を得た戦いのことを思い出しているようであった。
「多くの名だたる武将が命を落とした戦いであったが、民百姓の苦しみも並大抵ではなかったと聞いている。甲斐の武田も越後の上杉も意地の張り合いで信濃まで出庭って来て、結局ひどい目にあったのは信濃の百姓じゃ」
甚八が吐き捨てるようにつぶやいた。その表情は怒っているようにも見えた。
「甚八、もしやお前の本当の両親は、戦で命を落としたのか」
甚八の表情から何かを察したのか、佐助が訊ねた。
「わからん。わしはものごころつくころにはもう親はいなんだ。道ばたで泣いているのを誰かに拾われて、千代様に育てられたのだからな」
「まあ、その話は後でゆっくり聞こう。少し急がねば、日の暮れる前に善光寺にたどりつけないぞ」
清海が西の空を見て言った。
一面に広がる黄金の田を見ながら三好清海入道がつぶやいた。
上田城下を立った猿飛佐助、清海、禰津甚八、由利鎌之助の四人は、千曲川に沿って下って、今犀川との合流地点である川中島にたどり着いたところである。善光寺別当より諸国通行自由の善光寺聖の通行手形を清海に授けてもらうために寄り道をしたのだ。
「清海のためにとんだ寄り道になってしもうたわい」
佐助は不平を言ったが、
「まあまあ、わしはまだ善光寺に参ったことがない。ちょうどいい機会じゃないか」
由利鎌之助が取りなして、一同善光寺に向かうことになったのである。
時は八月、秋の盛り、頭を垂れた稲穂が、午後の陽に輝いている。
「百姓は生きるためには米を作らにゃならんからな。戦で踏み荒らされた田だって、何年もすれば立派な水田にもどるさ」
甚八は眩しそうに稲の波を見やった。
「あの戦では、武田典厩様、望月盛時様、山本道鬼様も命を落とされた激しい戦いじゃった。何せこのあたりの小川が血の色に染まったのが、昨日のことのように思い出されるわ」
由利鎌之助が誰もいない田に向かって手を合わせた。九死に一生を得た戦いのことを思い出しているようであった。
「多くの名だたる武将が命を落とした戦いであったが、民百姓の苦しみも並大抵ではなかったと聞いている。甲斐の武田も越後の上杉も意地の張り合いで信濃まで出庭って来て、結局ひどい目にあったのは信濃の百姓じゃ」
甚八が吐き捨てるようにつぶやいた。その表情は怒っているようにも見えた。
「甚八、もしやお前の本当の両親は、戦で命を落としたのか」
甚八の表情から何かを察したのか、佐助が訊ねた。
「わからん。わしはものごころつくころにはもう親はいなんだ。道ばたで泣いているのを誰かに拾われて、千代様に育てられたのだからな」
「まあ、その話は後でゆっくり聞こう。少し急がねば、日の暮れる前に善光寺にたどりつけないぞ」
清海が西の空を見て言った。
Posted by 南宜堂 at
17:15
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2010年08月29日
日々是好日 車中泊
今年の夏休みは、高速のサービスエリアや道の駅に車を止め、その中で一夜を明かすといういわゆる車中泊をする人たちが増えているのだという新聞記事があった。中にはキャンピングカーを用意して、自炊などもできるようにして旅をする人もいるのだという。しかも家族連れで行うという人が多いというのだ。
そんな記事に目がいったのは、このたびの旅でわたしもそれをしたからなのである。スケジュールを決めた旅ではなかったし、寝たくなったら寝て、走りたくなったら走るという旅であったからだが、宿泊費を浮かせようという思いもなかったわけではない。こんなことは今までもやってきた。車中仮眠である。しかし、この新聞記事の旅人たちは本格的に最初からそのつもりで準備している人たちのようである。
増えてきたといっても、まだまだ少数派であるからそれほど問題にもならないのだろうが、もっと大勢の人がこんな旅をするようになれば、ゴミの問題からはじまって、防犯、公共の場を占有することの是非といったことが問題化するのではないかと思う。車中泊で旅行するというのは、社会的には異端の行為のような気がするので、あまりにおおっぴらにすることではないのではないかというのが私の思いだ。
実はこのことは今日のテーマではない。もう10年以上も前のことだが、ある書店の店長をやっている方から聞いた話である。その人は子供がいなかったので、仕事をやめたら、軽のワゴン車を買って、奥さんと二人で車に泊まりながら日本中を旅するのが夢だというのだ。その時はほのぼのとした夢の話として聞いていたのだが、いざ自分がそんな年になってくると、そんな話が妙に現実味を帯びて思い出されてくるのである。
その人はたいへんに夫婦仲のいい人だったので、そんなことを思うのだろうが、これが仲のよくない夫婦ならどうなのだろうとか、仲が悪いということではないが、夫の道楽にはつきあいきれないという妻だっているのではないかと、いろいろなことを考えるのである。
偕老同穴とか比翼連理とか、夫婦の絆をうたった言葉は多い。そういうものを規範として育ってきた人たちはそうあらねばならないと努めてきたことであろう。しかし最近のように自分の感性に忠実に生きることが自分らしい生き方だともてはやされるようになると、そんな道徳は隅の方に押しやられてしまいそうである。
実は南宜堂には配偶者はいない。だからそんなことは自分とは関係ない世界の話で、軽ワゴンを買って旅をするにしても一人である。何の遠慮もなく勝手にやれるのである。「ざまあみろ」と言えばそれまでだが、違和感を抱きながらも男と女が共に一つ屋根の下に暮らしているという、そういう老後のあり方を真剣に考えないと、やはりまずいのではないですかという思いもあるのである。
そんな記事に目がいったのは、このたびの旅でわたしもそれをしたからなのである。スケジュールを決めた旅ではなかったし、寝たくなったら寝て、走りたくなったら走るという旅であったからだが、宿泊費を浮かせようという思いもなかったわけではない。こんなことは今までもやってきた。車中仮眠である。しかし、この新聞記事の旅人たちは本格的に最初からそのつもりで準備している人たちのようである。
増えてきたといっても、まだまだ少数派であるからそれほど問題にもならないのだろうが、もっと大勢の人がこんな旅をするようになれば、ゴミの問題からはじまって、防犯、公共の場を占有することの是非といったことが問題化するのではないかと思う。車中泊で旅行するというのは、社会的には異端の行為のような気がするので、あまりにおおっぴらにすることではないのではないかというのが私の思いだ。
実はこのことは今日のテーマではない。もう10年以上も前のことだが、ある書店の店長をやっている方から聞いた話である。その人は子供がいなかったので、仕事をやめたら、軽のワゴン車を買って、奥さんと二人で車に泊まりながら日本中を旅するのが夢だというのだ。その時はほのぼのとした夢の話として聞いていたのだが、いざ自分がそんな年になってくると、そんな話が妙に現実味を帯びて思い出されてくるのである。
その人はたいへんに夫婦仲のいい人だったので、そんなことを思うのだろうが、これが仲のよくない夫婦ならどうなのだろうとか、仲が悪いということではないが、夫の道楽にはつきあいきれないという妻だっているのではないかと、いろいろなことを考えるのである。
偕老同穴とか比翼連理とか、夫婦の絆をうたった言葉は多い。そういうものを規範として育ってきた人たちはそうあらねばならないと努めてきたことであろう。しかし最近のように自分の感性に忠実に生きることが自分らしい生き方だともてはやされるようになると、そんな道徳は隅の方に押しやられてしまいそうである。
実は南宜堂には配偶者はいない。だからそんなことは自分とは関係ない世界の話で、軽ワゴンを買って旅をするにしても一人である。何の遠慮もなく勝手にやれるのである。「ざまあみろ」と言えばそれまでだが、違和感を抱きながらも男と女が共に一つ屋根の下に暮らしているという、そういう老後のあり方を真剣に考えないと、やはりまずいのではないですかという思いもあるのである。
Posted by 南宜堂 at
13:27
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2010年08月28日
日々是好日 歴史ブーム
今日の地元の新聞に、大河ドラマ化を目指す3つの地区が集まってシンポジウムを開くのだという記事が載っていた。3つの地区というのは、真田幸村の上田、木曾義仲の木曾、そして保科正之の伊那高遠である。まさに世は歴史ブームである。上田城に行けば、若い女の子が大勢グループで訪れている。
景気の低迷と過疎化に悩む地方としては、昔の遺産で人が訪れてくれるのだから、こんなありがたいことはない。それには、NHKの大河ドラマというお墨付きが必要と、誘致運動にも熱が入るのであろう。これは一昔前の長野オリンピック誘致の事前運動を思わせる。まさかNHKの偉い方が視察に訪れて、地元は懸命に接待するなどということはないだろうが、それで実現するならやりたいと思う方もおられるのかも知れない。
歴史愛好家というのは昔からいる。郷土史家といわれる人々だ。地元に残されている石碑やお寺や古文書を一生懸命研究して、これはいつ頃にどんな人がと、その成果を郷土誌のようなものに発表したりする。主に教員を退職した人たちが多く、どちらかというと高齢者である。
ところが現在の歴史ブームを牽引しているのは若い人たち、それも女性に多いようなのである。郷土史家と呼ばれる人たちがモノから入るのに対して、こちらの人たちはヒトから入る。真田幸村とか坂本龍馬とか土方歳三とか、その生き方に感動してその人のファンになって歴史にはまるということのようなのである。
現在放送されている「龍馬伝」では、地元高知をはじめ、京都,長崎、下関とゆかりの地では一大龍馬ブームが巻き起こっているようなのである。地方経済の活性化には実に喜ばしいことと思う。しかし、歴史という観点から見てこれは歴史を理解するための正しい方法なのかという疑問は常に禁じ得ない。
「龍馬伝」における坂本龍馬像の原型はやはり司馬遼太郎の「竜馬がゆく」にあるのではないかと思う。新選組の土方歳三にしてもそうだが、司馬の造形した人物像によってブームが巻き起こり、ついには国民的な英雄となるということがしばしば起こっている。怖いのはそれが坂本龍馬なり土方歳三の実像と重なってしまい、それがいつの間にか一人歩きするという点にある。
このことは作者司馬遼太郎も望んでいなかったのではないかと思う。わたしはかつてこのブログの中で「戦後の龍馬像」というタイトルで次のようなことを書いた。
歴史家の飛鳥井雅道は、著書「坂本龍馬」の冒頭で、次のように読者に問いかけている。
「龍馬は真に理解された上で愛されているのだろうか。」
現在、福山雅治演じるところの坂本龍馬を毎週見ている私たちは、この問いかけに大きくうなずくのである。あれが史実だとは思っていないが、実在の坂本龍馬も福山龍馬とは違うものだろうと思う。
飛鳥井がこの問いを発したのは1970年代のことである。彼が同書の中で指摘しているように、その当時の龍馬像というのは、司馬遼太郎の「竜馬がゆく」の影響が決定的だった。飛鳥井は言う。
「司馬氏は、国民がいだきはじめてきていた愛すべき龍馬像を大きく司馬的に拡大し定着するのに成功することで、戦後の龍馬像の決定版をつくられたのであった。」
ここで言われている戦後の龍馬像とは、戦後民主主義と経済成長の果てに見える典型的な日本人像であり、「明るく、楽天的で磊落な人物であり、気取りがない」そんな人物としての龍馬なのである。
時代は変わり、現代はあの時代の人々が未来の世界として夢見ていたような、明るく自由な世界とはずいぶんとかけ離れたものになってしまった。それでも、またこの時代になって龍馬がもてはやされているというのは何故なのだろうか。
あくまでも司馬が書こうとしたのは、彼の歴史認識に基づく龍馬であり、実在の坂本龍馬ではなかったはずである。ところが、作者の力のなせる技かいつのまにかそれが龍馬の実像と重なってしまった。まさに、雪舟や左甚五郎の逸話にあるようなことが実際に起きたのである。
だからわたしたちが龍馬に共感するというのは、あくまでも司馬遼太郎の竜馬に共感しているのだという自覚をもっていなければいけないと思う。例えば、歴史家の松浦玲氏は資料を駆使し、龍馬の実像に迫ろうという仕事をされている。何が正しいかというのではない。自分はどんな龍馬像を描きたいかとことであると思う。例えば、ドラマの中で龍馬は「亀山社中は利を求めてはいかん」と言う。だが、あの時龍馬のやったことは後の岩崎弥太郎がやったことの先駆けであるという人もいる。
何が正しいというのではないが、あれだけ龍馬がもてはやされるともっと格好悪い龍馬像というのも追ってみたいと、天の邪鬼の南宜堂は考えたりする。
景気の低迷と過疎化に悩む地方としては、昔の遺産で人が訪れてくれるのだから、こんなありがたいことはない。それには、NHKの大河ドラマというお墨付きが必要と、誘致運動にも熱が入るのであろう。これは一昔前の長野オリンピック誘致の事前運動を思わせる。まさかNHKの偉い方が視察に訪れて、地元は懸命に接待するなどということはないだろうが、それで実現するならやりたいと思う方もおられるのかも知れない。
歴史愛好家というのは昔からいる。郷土史家といわれる人々だ。地元に残されている石碑やお寺や古文書を一生懸命研究して、これはいつ頃にどんな人がと、その成果を郷土誌のようなものに発表したりする。主に教員を退職した人たちが多く、どちらかというと高齢者である。
ところが現在の歴史ブームを牽引しているのは若い人たち、それも女性に多いようなのである。郷土史家と呼ばれる人たちがモノから入るのに対して、こちらの人たちはヒトから入る。真田幸村とか坂本龍馬とか土方歳三とか、その生き方に感動してその人のファンになって歴史にはまるということのようなのである。
現在放送されている「龍馬伝」では、地元高知をはじめ、京都,長崎、下関とゆかりの地では一大龍馬ブームが巻き起こっているようなのである。地方経済の活性化には実に喜ばしいことと思う。しかし、歴史という観点から見てこれは歴史を理解するための正しい方法なのかという疑問は常に禁じ得ない。
「龍馬伝」における坂本龍馬像の原型はやはり司馬遼太郎の「竜馬がゆく」にあるのではないかと思う。新選組の土方歳三にしてもそうだが、司馬の造形した人物像によってブームが巻き起こり、ついには国民的な英雄となるということがしばしば起こっている。怖いのはそれが坂本龍馬なり土方歳三の実像と重なってしまい、それがいつの間にか一人歩きするという点にある。
このことは作者司馬遼太郎も望んでいなかったのではないかと思う。わたしはかつてこのブログの中で「戦後の龍馬像」というタイトルで次のようなことを書いた。
歴史家の飛鳥井雅道は、著書「坂本龍馬」の冒頭で、次のように読者に問いかけている。
「龍馬は真に理解された上で愛されているのだろうか。」
現在、福山雅治演じるところの坂本龍馬を毎週見ている私たちは、この問いかけに大きくうなずくのである。あれが史実だとは思っていないが、実在の坂本龍馬も福山龍馬とは違うものだろうと思う。
飛鳥井がこの問いを発したのは1970年代のことである。彼が同書の中で指摘しているように、その当時の龍馬像というのは、司馬遼太郎の「竜馬がゆく」の影響が決定的だった。飛鳥井は言う。
「司馬氏は、国民がいだきはじめてきていた愛すべき龍馬像を大きく司馬的に拡大し定着するのに成功することで、戦後の龍馬像の決定版をつくられたのであった。」
ここで言われている戦後の龍馬像とは、戦後民主主義と経済成長の果てに見える典型的な日本人像であり、「明るく、楽天的で磊落な人物であり、気取りがない」そんな人物としての龍馬なのである。
時代は変わり、現代はあの時代の人々が未来の世界として夢見ていたような、明るく自由な世界とはずいぶんとかけ離れたものになってしまった。それでも、またこの時代になって龍馬がもてはやされているというのは何故なのだろうか。
あくまでも司馬が書こうとしたのは、彼の歴史認識に基づく龍馬であり、実在の坂本龍馬ではなかったはずである。ところが、作者の力のなせる技かいつのまにかそれが龍馬の実像と重なってしまった。まさに、雪舟や左甚五郎の逸話にあるようなことが実際に起きたのである。
だからわたしたちが龍馬に共感するというのは、あくまでも司馬遼太郎の竜馬に共感しているのだという自覚をもっていなければいけないと思う。例えば、歴史家の松浦玲氏は資料を駆使し、龍馬の実像に迫ろうという仕事をされている。何が正しいかというのではない。自分はどんな龍馬像を描きたいかとことであると思う。例えば、ドラマの中で龍馬は「亀山社中は利を求めてはいかん」と言う。だが、あの時龍馬のやったことは後の岩崎弥太郎がやったことの先駆けであるという人もいる。
何が正しいというのではないが、あれだけ龍馬がもてはやされるともっと格好悪い龍馬像というのも追ってみたいと、天の邪鬼の南宜堂は考えたりする。
Posted by 南宜堂 at
10:28
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2010年08月26日
風雲烏城 18
ここに真田の九勇士が揃った。後に霧隠才蔵が加わって十勇士となるのだが、それはまだ先の話である。
お話は、上田城内の幸村の住まいのある新御殿の一室からはじまる。先ほどから幸村と九人の勇者たちは、何やら作戦会議の真っ最中である。
「まずは敵の内情を探るのがわが真田の常道ではござらぬか」
そう切り出したのは海野六郎である。
「その通り。我らは集めた情報を駆使して、衆寡敵せず、これまで戦に勝ってまいった」
望月六郎もそれに応じた。
「時は天文二十年、我ら真田勢は戦わずして砥石の城を落としたのである」
節をつけて三好清海入道が大音声を張り上げる。
砥石城は小県随一の堅塁とうたわれた城で、真田の里を見下ろす場所にあり、村上義清が要害を築いていた。天文十九年八月二十七日、武田信玄は一万の兵を率いて小県海野平に宿陣した。その本陣の前を一頭の鹿が走り抜けたという。そして、二十九日信玄自らが砥石城の麓に偵察に出かけた。すると城の上に茜色の雲が立った。これを吉兆と見た信玄は九月九日、砥石城の総攻撃を命じた。
前々年の天文十七年、上田原で武田軍を破った村上は自信に満ちていた。加えて天然の要害である。一万の軍勢の攻撃にもびくともせず、反対に城の上から石を落とされたり、弓矢で狙い撃ちされたりと武田軍はさんざんに翻弄された。
二十日間の攻防の末、武田軍は撤退を余儀なくされた。武田軍の敗走を見た村上の城兵は追撃に出た。戦意を失って逃げる兵は弱い。横田高松はじめ一千の兵を失って信玄は望月城に退いた。この負け戦、信玄は「砥石崩れ」と呼んで後世への戒めとした。
その難攻不落の砥石城が翌年五月、幸村の祖父真田幸隆の手によって戦わずして落ちた。どんな機略を使ったのか。真田方の工作によりあらかじめ内通していた矢沢重信が城に火を放ち、その混乱に乗じて幸隆が攻め込んだのだといわれている。
「敵の中に内通者を出す作戦でござりますか」
清海の弟三好伊三入道が膝を乗り出した。
「いや待て、敵の様子を探るまではうかつに行動は起こせん。そこでまず、烏城下の探索に行ってもらおうと思う。逸る心はわかるが、急いては事を仕損じるじゃからな」
幸村がせっかちな三好兄弟をたしなめた。
「とは言っても、回りはすべて敵と思わねばならぬ。沼田から先は適地じゃ。うかつには入り込めぬぞよ。ここはひとつ、猿飛佐助、禰津甚八そして由利鎌之助の三名のものに頼もうと思う。歩き巫女と山伏、その荷物持ちとあらば道中怪しまれることもあるまい」
「おっと待った。いかに若殿様のお言葉でも拙者異議がござる」
幸村の言葉に不平を唱えたのはまたもや清海であった。
「確かに三名のものは斥候にはうってつけでありましょう。しかし、三名とも真田の勇士に最近になって加わったものたち、それでは前からおる我らの面目が立ちません。どうか私めをその一行にお加えいただきとうございます」
古くからいる勇士の代表として自分も行くというのである。
「そうは申してもなあ。それがしはただいても目立つ。すぐに敵に正体を知られてしまうではないか」
幸村の言うのももっともであった。三好清海と言えば、身の丈六尺もあろうという大男、おまけに顔中ひげだらけの顔は敵もその姿を見ただけで逃げ出すというほどに知れ渡っていた。
「清海の言うのももっともではないか」
前触れもなく入ってきたのは、幸村の父、真田家の当主昌幸であった。
「おおこれは父上、いらっしゃるならそうおっしゃっていただければいいものを」
幸村以下一同あわててかしこまって正座した。
「なにそのままでいい。清海、おぬしは聖になって佐助たちに同行したらどうじゃ。そうすれば怪しまれることなく旅ができようぞ」
「聖というと、笈を背負って歩くあの聖でありますか。それは名案、拙者仏道の修行も長年重ねてまいりました。聖にでも尼僧にでもなってみせまする」
「おぬしの尼僧姿は見たくはないがのう」
佐助がまぜっ返すと、一同腹を抱えて笑い転げた。
「わしも見たくない。それでは清海、善光寺の別当栗田天寿のもとにまいって戒を授けてもらってまいれ。わしが一筆書き添えてつかわす」
昌幸の計らいに清海入道「ありがたき幸せ」と平伏するのであった。
聖というと、全国を勧進して歩いて弘法大師への信仰を広めた高野聖が有名だが、善光寺聖というものもあった。彼らは絵解き、説経、祭文、踊り念仏といった手段で民衆を教化し、善光寺信仰を広めて歩いた。僧侶には違いないが、妻帯するものもいて、世俗と交わることでだんだんと俗世間の垢を身にまとっていったようである。時代が下ると芸能者になったり商人になるものもいた。
お話は、上田城内の幸村の住まいのある新御殿の一室からはじまる。先ほどから幸村と九人の勇者たちは、何やら作戦会議の真っ最中である。
「まずは敵の内情を探るのがわが真田の常道ではござらぬか」
そう切り出したのは海野六郎である。
「その通り。我らは集めた情報を駆使して、衆寡敵せず、これまで戦に勝ってまいった」
望月六郎もそれに応じた。
「時は天文二十年、我ら真田勢は戦わずして砥石の城を落としたのである」
節をつけて三好清海入道が大音声を張り上げる。
砥石城は小県随一の堅塁とうたわれた城で、真田の里を見下ろす場所にあり、村上義清が要害を築いていた。天文十九年八月二十七日、武田信玄は一万の兵を率いて小県海野平に宿陣した。その本陣の前を一頭の鹿が走り抜けたという。そして、二十九日信玄自らが砥石城の麓に偵察に出かけた。すると城の上に茜色の雲が立った。これを吉兆と見た信玄は九月九日、砥石城の総攻撃を命じた。
前々年の天文十七年、上田原で武田軍を破った村上は自信に満ちていた。加えて天然の要害である。一万の軍勢の攻撃にもびくともせず、反対に城の上から石を落とされたり、弓矢で狙い撃ちされたりと武田軍はさんざんに翻弄された。
二十日間の攻防の末、武田軍は撤退を余儀なくされた。武田軍の敗走を見た村上の城兵は追撃に出た。戦意を失って逃げる兵は弱い。横田高松はじめ一千の兵を失って信玄は望月城に退いた。この負け戦、信玄は「砥石崩れ」と呼んで後世への戒めとした。
その難攻不落の砥石城が翌年五月、幸村の祖父真田幸隆の手によって戦わずして落ちた。どんな機略を使ったのか。真田方の工作によりあらかじめ内通していた矢沢重信が城に火を放ち、その混乱に乗じて幸隆が攻め込んだのだといわれている。
「敵の中に内通者を出す作戦でござりますか」
清海の弟三好伊三入道が膝を乗り出した。
「いや待て、敵の様子を探るまではうかつに行動は起こせん。そこでまず、烏城下の探索に行ってもらおうと思う。逸る心はわかるが、急いては事を仕損じるじゃからな」
幸村がせっかちな三好兄弟をたしなめた。
「とは言っても、回りはすべて敵と思わねばならぬ。沼田から先は適地じゃ。うかつには入り込めぬぞよ。ここはひとつ、猿飛佐助、禰津甚八そして由利鎌之助の三名のものに頼もうと思う。歩き巫女と山伏、その荷物持ちとあらば道中怪しまれることもあるまい」
「おっと待った。いかに若殿様のお言葉でも拙者異議がござる」
幸村の言葉に不平を唱えたのはまたもや清海であった。
「確かに三名のものは斥候にはうってつけでありましょう。しかし、三名とも真田の勇士に最近になって加わったものたち、それでは前からおる我らの面目が立ちません。どうか私めをその一行にお加えいただきとうございます」
古くからいる勇士の代表として自分も行くというのである。
「そうは申してもなあ。それがしはただいても目立つ。すぐに敵に正体を知られてしまうではないか」
幸村の言うのももっともであった。三好清海と言えば、身の丈六尺もあろうという大男、おまけに顔中ひげだらけの顔は敵もその姿を見ただけで逃げ出すというほどに知れ渡っていた。
「清海の言うのももっともではないか」
前触れもなく入ってきたのは、幸村の父、真田家の当主昌幸であった。
「おおこれは父上、いらっしゃるならそうおっしゃっていただければいいものを」
幸村以下一同あわててかしこまって正座した。
「なにそのままでいい。清海、おぬしは聖になって佐助たちに同行したらどうじゃ。そうすれば怪しまれることなく旅ができようぞ」
「聖というと、笈を背負って歩くあの聖でありますか。それは名案、拙者仏道の修行も長年重ねてまいりました。聖にでも尼僧にでもなってみせまする」
「おぬしの尼僧姿は見たくはないがのう」
佐助がまぜっ返すと、一同腹を抱えて笑い転げた。
「わしも見たくない。それでは清海、善光寺の別当栗田天寿のもとにまいって戒を授けてもらってまいれ。わしが一筆書き添えてつかわす」
昌幸の計らいに清海入道「ありがたき幸せ」と平伏するのであった。
聖というと、全国を勧進して歩いて弘法大師への信仰を広めた高野聖が有名だが、善光寺聖というものもあった。彼らは絵解き、説経、祭文、踊り念仏といった手段で民衆を教化し、善光寺信仰を広めて歩いた。僧侶には違いないが、妻帯するものもいて、世俗と交わることでだんだんと俗世間の垢を身にまとっていったようである。時代が下ると芸能者になったり商人になるものもいた。
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15:28
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2010年08月25日
日々是好日 武平まんじゅう
日光で思い出したのが「武平まんじゅう」であった。以前に友人からその噂を聞いていて、一度食べたいものだと思っていた。今市にあるというのだが、わかりにくい場所だし、すぐに売り切れてしまうのでなかなか買えないのだということであった。
こういう時に便利なのがネットとばかり、沼田のマクドナルドに入り、例のiPadを使って検索する。もちもちしてとか、黒糖の風味がとか評判記が載っている。20分か30分待たないと買えないので、予約しておいた方がいいともある。場所はマップで調べてだいたいの方角をつかむ。確かに、町場からは外れた場所にあった。行けばなんとかなるだろうと出発する。
沼田からは山道になるのだがまわりの緑が気持ちいい。戦場ヶ原にかかったあたりで、予約しておいた方がいいかと思い直して電話をする。なんとか取っておいてくれるということで一安心。
今市はいまは日光市に編入されている。日光街道を宇都宮方面に進めばいいと地図にはあったので、そのうち看板でも出ているだろうと思いつつ進むがなかなかそれらしきものはない。グーグルの地図はネットにつながってないと役に立たない。行き当たりばったりでこの辺を曲がってみようなどとしておかしな方に行ってしまった。さんざん迷って、途中で電話して場所を確認などしてようやくたどりついた。農村地帯の小学校の前にあるごくふつうのお菓子屋さんという構えである。
昼もだいぶ過ぎていたせいか、お客は少なく一仕事終えたおじいさん(たぶんこの人がご主人であろう)がかまどに寄りかかって一服していた。これだけ迷って手に入れた武平まんじゅう、どんな味なのか、逸る心を抑え駐車場に戻る。おまけに2個もらったのでこれを食べてみようと思う。その前に、紹介していただいた友人に報告、一包みおみやげにと思って電話したがあいにくと旅行中であった。
さて、20個の武平まんじゅうをどうしたものか。とりあえずおまけをほおばる。うまい、評判に違わぬ味、特別にどうということはないのだが、一つ食べるとまた食べたくなる、後を引く味だ。これなら一人で20個はいけると思ったが、結局は家へのお土産として子供たちに渡すと、やはりうまいうまいとすぐに食べてしまった。
名物まんじゅうというのは各地にある。昔の街道筋に多いようだ。私がたどってきた吾妻路にも草津のおんせんまんじゅう、長野原には酒まんじゅうのうまい店がある。旅の疲れをいやすには甘いまんじゅうが何よりだったのかもしれない。茶店で出すにも作り方がシンプルだから手軽だったのかもしれない。
というわけで、ここに武平まんじゅうの写真でも載っていれば気が利いているのだが、食べてしまったのでない。なんとも間の抜けた報告である。
こういう時に便利なのがネットとばかり、沼田のマクドナルドに入り、例のiPadを使って検索する。もちもちしてとか、黒糖の風味がとか評判記が載っている。20分か30分待たないと買えないので、予約しておいた方がいいともある。場所はマップで調べてだいたいの方角をつかむ。確かに、町場からは外れた場所にあった。行けばなんとかなるだろうと出発する。
沼田からは山道になるのだがまわりの緑が気持ちいい。戦場ヶ原にかかったあたりで、予約しておいた方がいいかと思い直して電話をする。なんとか取っておいてくれるということで一安心。
今市はいまは日光市に編入されている。日光街道を宇都宮方面に進めばいいと地図にはあったので、そのうち看板でも出ているだろうと思いつつ進むがなかなかそれらしきものはない。グーグルの地図はネットにつながってないと役に立たない。行き当たりばったりでこの辺を曲がってみようなどとしておかしな方に行ってしまった。さんざん迷って、途中で電話して場所を確認などしてようやくたどりついた。農村地帯の小学校の前にあるごくふつうのお菓子屋さんという構えである。
昼もだいぶ過ぎていたせいか、お客は少なく一仕事終えたおじいさん(たぶんこの人がご主人であろう)がかまどに寄りかかって一服していた。これだけ迷って手に入れた武平まんじゅう、どんな味なのか、逸る心を抑え駐車場に戻る。おまけに2個もらったのでこれを食べてみようと思う。その前に、紹介していただいた友人に報告、一包みおみやげにと思って電話したがあいにくと旅行中であった。
さて、20個の武平まんじゅうをどうしたものか。とりあえずおまけをほおばる。うまい、評判に違わぬ味、特別にどうということはないのだが、一つ食べるとまた食べたくなる、後を引く味だ。これなら一人で20個はいけると思ったが、結局は家へのお土産として子供たちに渡すと、やはりうまいうまいとすぐに食べてしまった。
名物まんじゅうというのは各地にある。昔の街道筋に多いようだ。私がたどってきた吾妻路にも草津のおんせんまんじゅう、長野原には酒まんじゅうのうまい店がある。旅の疲れをいやすには甘いまんじゅうが何よりだったのかもしれない。茶店で出すにも作り方がシンプルだから手軽だったのかもしれない。
というわけで、ここに武平まんじゅうの写真でも載っていれば気が利いているのだが、食べてしまったのでない。なんとも間の抜けた報告である。
Posted by 南宜堂 at
12:03
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