2010年08月26日
風雲烏城 18
ここに真田の九勇士が揃った。後に霧隠才蔵が加わって十勇士となるのだが、それはまだ先の話である。
お話は、上田城内の幸村の住まいのある新御殿の一室からはじまる。先ほどから幸村と九人の勇者たちは、何やら作戦会議の真っ最中である。
「まずは敵の内情を探るのがわが真田の常道ではござらぬか」
そう切り出したのは海野六郎である。
「その通り。我らは集めた情報を駆使して、衆寡敵せず、これまで戦に勝ってまいった」
望月六郎もそれに応じた。
「時は天文二十年、我ら真田勢は戦わずして砥石の城を落としたのである」
節をつけて三好清海入道が大音声を張り上げる。
砥石城は小県随一の堅塁とうたわれた城で、真田の里を見下ろす場所にあり、村上義清が要害を築いていた。天文十九年八月二十七日、武田信玄は一万の兵を率いて小県海野平に宿陣した。その本陣の前を一頭の鹿が走り抜けたという。そして、二十九日信玄自らが砥石城の麓に偵察に出かけた。すると城の上に茜色の雲が立った。これを吉兆と見た信玄は九月九日、砥石城の総攻撃を命じた。
前々年の天文十七年、上田原で武田軍を破った村上は自信に満ちていた。加えて天然の要害である。一万の軍勢の攻撃にもびくともせず、反対に城の上から石を落とされたり、弓矢で狙い撃ちされたりと武田軍はさんざんに翻弄された。
二十日間の攻防の末、武田軍は撤退を余儀なくされた。武田軍の敗走を見た村上の城兵は追撃に出た。戦意を失って逃げる兵は弱い。横田高松はじめ一千の兵を失って信玄は望月城に退いた。この負け戦、信玄は「砥石崩れ」と呼んで後世への戒めとした。
その難攻不落の砥石城が翌年五月、幸村の祖父真田幸隆の手によって戦わずして落ちた。どんな機略を使ったのか。真田方の工作によりあらかじめ内通していた矢沢重信が城に火を放ち、その混乱に乗じて幸隆が攻め込んだのだといわれている。
「敵の中に内通者を出す作戦でござりますか」
清海の弟三好伊三入道が膝を乗り出した。
「いや待て、敵の様子を探るまではうかつに行動は起こせん。そこでまず、烏城下の探索に行ってもらおうと思う。逸る心はわかるが、急いては事を仕損じるじゃからな」
幸村がせっかちな三好兄弟をたしなめた。
「とは言っても、回りはすべて敵と思わねばならぬ。沼田から先は適地じゃ。うかつには入り込めぬぞよ。ここはひとつ、猿飛佐助、禰津甚八そして由利鎌之助の三名のものに頼もうと思う。歩き巫女と山伏、その荷物持ちとあらば道中怪しまれることもあるまい」
「おっと待った。いかに若殿様のお言葉でも拙者異議がござる」
幸村の言葉に不平を唱えたのはまたもや清海であった。
「確かに三名のものは斥候にはうってつけでありましょう。しかし、三名とも真田の勇士に最近になって加わったものたち、それでは前からおる我らの面目が立ちません。どうか私めをその一行にお加えいただきとうございます」
古くからいる勇士の代表として自分も行くというのである。
「そうは申してもなあ。それがしはただいても目立つ。すぐに敵に正体を知られてしまうではないか」
幸村の言うのももっともであった。三好清海と言えば、身の丈六尺もあろうという大男、おまけに顔中ひげだらけの顔は敵もその姿を見ただけで逃げ出すというほどに知れ渡っていた。
「清海の言うのももっともではないか」
前触れもなく入ってきたのは、幸村の父、真田家の当主昌幸であった。
「おおこれは父上、いらっしゃるならそうおっしゃっていただければいいものを」
幸村以下一同あわててかしこまって正座した。
「なにそのままでいい。清海、おぬしは聖になって佐助たちに同行したらどうじゃ。そうすれば怪しまれることなく旅ができようぞ」
「聖というと、笈を背負って歩くあの聖でありますか。それは名案、拙者仏道の修行も長年重ねてまいりました。聖にでも尼僧にでもなってみせまする」
「おぬしの尼僧姿は見たくはないがのう」
佐助がまぜっ返すと、一同腹を抱えて笑い転げた。
「わしも見たくない。それでは清海、善光寺の別当栗田天寿のもとにまいって戒を授けてもらってまいれ。わしが一筆書き添えてつかわす」
昌幸の計らいに清海入道「ありがたき幸せ」と平伏するのであった。
聖というと、全国を勧進して歩いて弘法大師への信仰を広めた高野聖が有名だが、善光寺聖というものもあった。彼らは絵解き、説経、祭文、踊り念仏といった手段で民衆を教化し、善光寺信仰を広めて歩いた。僧侶には違いないが、妻帯するものもいて、世俗と交わることでだんだんと俗世間の垢を身にまとっていったようである。時代が下ると芸能者になったり商人になるものもいた。
お話は、上田城内の幸村の住まいのある新御殿の一室からはじまる。先ほどから幸村と九人の勇者たちは、何やら作戦会議の真っ最中である。
「まずは敵の内情を探るのがわが真田の常道ではござらぬか」
そう切り出したのは海野六郎である。
「その通り。我らは集めた情報を駆使して、衆寡敵せず、これまで戦に勝ってまいった」
望月六郎もそれに応じた。
「時は天文二十年、我ら真田勢は戦わずして砥石の城を落としたのである」
節をつけて三好清海入道が大音声を張り上げる。
砥石城は小県随一の堅塁とうたわれた城で、真田の里を見下ろす場所にあり、村上義清が要害を築いていた。天文十九年八月二十七日、武田信玄は一万の兵を率いて小県海野平に宿陣した。その本陣の前を一頭の鹿が走り抜けたという。そして、二十九日信玄自らが砥石城の麓に偵察に出かけた。すると城の上に茜色の雲が立った。これを吉兆と見た信玄は九月九日、砥石城の総攻撃を命じた。
前々年の天文十七年、上田原で武田軍を破った村上は自信に満ちていた。加えて天然の要害である。一万の軍勢の攻撃にもびくともせず、反対に城の上から石を落とされたり、弓矢で狙い撃ちされたりと武田軍はさんざんに翻弄された。
二十日間の攻防の末、武田軍は撤退を余儀なくされた。武田軍の敗走を見た村上の城兵は追撃に出た。戦意を失って逃げる兵は弱い。横田高松はじめ一千の兵を失って信玄は望月城に退いた。この負け戦、信玄は「砥石崩れ」と呼んで後世への戒めとした。
その難攻不落の砥石城が翌年五月、幸村の祖父真田幸隆の手によって戦わずして落ちた。どんな機略を使ったのか。真田方の工作によりあらかじめ内通していた矢沢重信が城に火を放ち、その混乱に乗じて幸隆が攻め込んだのだといわれている。
「敵の中に内通者を出す作戦でござりますか」
清海の弟三好伊三入道が膝を乗り出した。
「いや待て、敵の様子を探るまではうかつに行動は起こせん。そこでまず、烏城下の探索に行ってもらおうと思う。逸る心はわかるが、急いては事を仕損じるじゃからな」
幸村がせっかちな三好兄弟をたしなめた。
「とは言っても、回りはすべて敵と思わねばならぬ。沼田から先は適地じゃ。うかつには入り込めぬぞよ。ここはひとつ、猿飛佐助、禰津甚八そして由利鎌之助の三名のものに頼もうと思う。歩き巫女と山伏、その荷物持ちとあらば道中怪しまれることもあるまい」
「おっと待った。いかに若殿様のお言葉でも拙者異議がござる」
幸村の言葉に不平を唱えたのはまたもや清海であった。
「確かに三名のものは斥候にはうってつけでありましょう。しかし、三名とも真田の勇士に最近になって加わったものたち、それでは前からおる我らの面目が立ちません。どうか私めをその一行にお加えいただきとうございます」
古くからいる勇士の代表として自分も行くというのである。
「そうは申してもなあ。それがしはただいても目立つ。すぐに敵に正体を知られてしまうではないか」
幸村の言うのももっともであった。三好清海と言えば、身の丈六尺もあろうという大男、おまけに顔中ひげだらけの顔は敵もその姿を見ただけで逃げ出すというほどに知れ渡っていた。
「清海の言うのももっともではないか」
前触れもなく入ってきたのは、幸村の父、真田家の当主昌幸であった。
「おおこれは父上、いらっしゃるならそうおっしゃっていただければいいものを」
幸村以下一同あわててかしこまって正座した。
「なにそのままでいい。清海、おぬしは聖になって佐助たちに同行したらどうじゃ。そうすれば怪しまれることなく旅ができようぞ」
「聖というと、笈を背負って歩くあの聖でありますか。それは名案、拙者仏道の修行も長年重ねてまいりました。聖にでも尼僧にでもなってみせまする」
「おぬしの尼僧姿は見たくはないがのう」
佐助がまぜっ返すと、一同腹を抱えて笑い転げた。
「わしも見たくない。それでは清海、善光寺の別当栗田天寿のもとにまいって戒を授けてもらってまいれ。わしが一筆書き添えてつかわす」
昌幸の計らいに清海入道「ありがたき幸せ」と平伏するのであった。
聖というと、全国を勧進して歩いて弘法大師への信仰を広めた高野聖が有名だが、善光寺聖というものもあった。彼らは絵解き、説経、祭文、踊り念仏といった手段で民衆を教化し、善光寺信仰を広めて歩いた。僧侶には違いないが、妻帯するものもいて、世俗と交わることでだんだんと俗世間の垢を身にまとっていったようである。時代が下ると芸能者になったり商人になるものもいた。
Posted by 南宜堂 at 15:28│Comments(0)
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