2009年10月31日
近藤勇の尊王攘夷 つづき
福地桜痴が近藤勇のもとを訪れてから間もなく、近藤は土方歳三や沖田総司とともに上洛するのであるが、きっかけは幕府による浪士の募集であった。
よくいわれているように、この黒幕は清河八郎という出羽出身の浪士である。清河と近藤は水と油、まったく相容れないもののように思われるのだが、それぞれに思惑があって、幕末という時代にはこんなことがよくあった。
表向きは、将軍の上洛に際し警衛のため尽忠報国の士を募るというものであったが、そのことを政事総裁職松平慶永に献策したのは清河であった。献策が入れられるや、清河は同志を関八州に放って募集に当たらせたというのだが、こんな大がかりな方法で人を集めたのはほかに目的があったのだ。
清河八郎というのは、尊王攘夷原理主義者とでもいっていいような急進的な人物で、尊王のためには倒幕も辞さずというほどの男であった。過去に入牢もしている。そんな清河がなぜ幕閣の中にまで入り込めたのかというと、弟子に山岡鉄太郎や松岡万といった幕臣がいたからである。
とにかく、浪士募集は動きだし、そんな誘いが当時町道場主であった近藤勇のもとへもきた。もとより近藤も尊王攘夷論者である。しかし近藤の尊王は、楠正成のような天皇に尽くす武人をイメージしての尊王であったといっていい。その楠正成に擬せられるのが近藤にとっては大樹公将軍であった。
ここが清河の将軍を無視しての尊王とは大きく違うところであった。その違いが京都に上ってから、両者が袂を分つまでに発展する。
この近藤勇の尊王攘夷について、歴史家の服部之総は近藤の出身地である多摩の風土からつぎのように考察している。「ここに、一方における近代的資格を殆どまるで具えていないところの農村富農の一範疇が、文久非常時を契機として政治の舞台にせり出してきたとき、どんな役割をすべきか、したか。これを見るうえで、試衛館一派の歴史は珍重なものといえるであろう。」(服部之総「黒船前後」)
ここで服部は近藤らの出身地盤である多摩の富農層を「近代的資格を殆どまるで具えていない」といっているのだが、これは商業資本がまだ浸透していない天領多摩の風土をいっている。この地において封建制は自明であり、将軍は絶対であった。近藤らは草奔の志士として生きるよりは幕臣に取立てられることを望んだのである。
よくいわれているように、この黒幕は清河八郎という出羽出身の浪士である。清河と近藤は水と油、まったく相容れないもののように思われるのだが、それぞれに思惑があって、幕末という時代にはこんなことがよくあった。
表向きは、将軍の上洛に際し警衛のため尽忠報国の士を募るというものであったが、そのことを政事総裁職松平慶永に献策したのは清河であった。献策が入れられるや、清河は同志を関八州に放って募集に当たらせたというのだが、こんな大がかりな方法で人を集めたのはほかに目的があったのだ。
清河八郎というのは、尊王攘夷原理主義者とでもいっていいような急進的な人物で、尊王のためには倒幕も辞さずというほどの男であった。過去に入牢もしている。そんな清河がなぜ幕閣の中にまで入り込めたのかというと、弟子に山岡鉄太郎や松岡万といった幕臣がいたからである。
とにかく、浪士募集は動きだし、そんな誘いが当時町道場主であった近藤勇のもとへもきた。もとより近藤も尊王攘夷論者である。しかし近藤の尊王は、楠正成のような天皇に尽くす武人をイメージしての尊王であったといっていい。その楠正成に擬せられるのが近藤にとっては大樹公将軍であった。
ここが清河の将軍を無視しての尊王とは大きく違うところであった。その違いが京都に上ってから、両者が袂を分つまでに発展する。
この近藤勇の尊王攘夷について、歴史家の服部之総は近藤の出身地である多摩の風土からつぎのように考察している。「ここに、一方における近代的資格を殆どまるで具えていないところの農村富農の一範疇が、文久非常時を契機として政治の舞台にせり出してきたとき、どんな役割をすべきか、したか。これを見るうえで、試衛館一派の歴史は珍重なものといえるであろう。」(服部之総「黒船前後」)
ここで服部は近藤らの出身地盤である多摩の富農層を「近代的資格を殆どまるで具えていない」といっているのだが、これは商業資本がまだ浸透していない天領多摩の風土をいっている。この地において封建制は自明であり、将軍は絶対であった。近藤らは草奔の志士として生きるよりは幕臣に取立てられることを望んだのである。
2009年10月30日
近藤勇の尊王攘夷
福地源一郎、のちの桜痴が試衛館に近藤勇を訪ねた折、近藤の書斎には開きかけの「日本外史」があったということを書いている。福地は長崎の生まれ、この時は幕府に通訳として採用されていた。維新後は新聞記者となり、東京日々新聞の社長までつとめている。
頼山陽の「日本外史」は江戸時代のベストセラー、近藤は習字の練習も兼ねて筆写していたようだが、武骨一辺倒と思われている近藤には意外なエピソードである。
「日本外史」について、いつも引用している「ウィキペディア」の記述は次のようになっている。「江戸時代、頼山陽が著作した日本の歴史書。文政10年(1827年)に山陽と親しかった元老中の松平定信に進呈、2年後に発行された。全二十二巻、漢文体で書かれている。子孫の頼惟勤等により、岩波文庫上中下巻で書き下し体(文語体)で刊行され、現代語訳は「織田氏」までの<一・二・三・五・六・十一・十三・十四巻>の8章が、頼惟勤をまとめ役に『日本の名著20 頼山陽』中央公論新社で出された。
平安時代末期の源氏・平氏の争いから始まり、北条氏・楠氏・新田氏・足利氏・毛利氏・後北条氏・武田氏・上杉氏・織田氏・豊臣氏・徳川氏までの諸氏の歴史を、武家の興亡を中心に家系ごとに分割されて(列伝体)書かれている。簡明な叙述であり、情熱的な文章であった為に広く愛読されたが、参考史料として軍記物語なども用いているため、歴史的事実に忠実であるとは言いがたい記事も散見する。言い換えれば、史伝小説の源流の一つと言い得る。
幕末の尊皇攘夷運動や勤皇思想に大きな影響を与えた。」
私たちは新選組というと、亡びゆく幕府に殉じた悲劇のヒーローとして、情緒面でのみとらえてしまっているのだが、彼らの中には確固とした政治思想というものがなかったのだろうか。近藤勇の愛読書が「日本外史」であるというエピソードは、そのひとつの答えのようにも思われる。彼なりに激動の時代の思想を学んだのではないだろうか。
幕藩体制とは、徳川幕府を頂点とし、各藩がその下に並ぶピラミッド型の体制なのであるが、幕末になるとそれが大きく崩れてくる。幕府が弱体化したのと薩摩や長州といった雄藩が実力を蓄えてきたことが大きな原因だが、もうひとつ忘れてはならないのは、朝廷の存在である。
京都の朝廷は徳川幕府の政策によって、経済的には力を持たず、政治的な発言も許されなかった。しかし、幕末になって勃興した尊王攘夷思想により、その存在はにわかに大きくなったのである。相対的に徳川幕府の地位は貶められ、幕府は朝廷からの委任によって政治を行っているにすぎないという思想が蔓延した。
この尊王攘夷思想が、徳川御三家の一つ水戸藩によって学問的に深められ、「水戸学」として普及したというのも皮肉な話である。しかし、水戸学の始祖ともいうべき徳川光圀の尊王攘夷は、必ずしも将軍家を否定するものではなかったようである。時代は徳川氏で安定しており、天皇はまさに形而上的な存在として奉られていたのである。
しかし、徳川氏の支配力は相対的に弱まり、変わって台頭してきた西南の雄藩は、天皇の持つカリスマ的な力を政治的に利用しようとしたのである。
この時代、誰もが尊王攘夷であった。徳川将軍家はもちろんのこと、新選組でさえも尊王攘夷であったのだ。たた、それぞれが尊王攘夷という思想をそれぞれの都合で自分なりに解釈していたにすぎない。
頼山陽の「日本外史」は江戸時代のベストセラー、近藤は習字の練習も兼ねて筆写していたようだが、武骨一辺倒と思われている近藤には意外なエピソードである。
「日本外史」について、いつも引用している「ウィキペディア」の記述は次のようになっている。「江戸時代、頼山陽が著作した日本の歴史書。文政10年(1827年)に山陽と親しかった元老中の松平定信に進呈、2年後に発行された。全二十二巻、漢文体で書かれている。子孫の頼惟勤等により、岩波文庫上中下巻で書き下し体(文語体)で刊行され、現代語訳は「織田氏」までの<一・二・三・五・六・十一・十三・十四巻>の8章が、頼惟勤をまとめ役に『日本の名著20 頼山陽』中央公論新社で出された。
平安時代末期の源氏・平氏の争いから始まり、北条氏・楠氏・新田氏・足利氏・毛利氏・後北条氏・武田氏・上杉氏・織田氏・豊臣氏・徳川氏までの諸氏の歴史を、武家の興亡を中心に家系ごとに分割されて(列伝体)書かれている。簡明な叙述であり、情熱的な文章であった為に広く愛読されたが、参考史料として軍記物語なども用いているため、歴史的事実に忠実であるとは言いがたい記事も散見する。言い換えれば、史伝小説の源流の一つと言い得る。
幕末の尊皇攘夷運動や勤皇思想に大きな影響を与えた。」
私たちは新選組というと、亡びゆく幕府に殉じた悲劇のヒーローとして、情緒面でのみとらえてしまっているのだが、彼らの中には確固とした政治思想というものがなかったのだろうか。近藤勇の愛読書が「日本外史」であるというエピソードは、そのひとつの答えのようにも思われる。彼なりに激動の時代の思想を学んだのではないだろうか。
幕藩体制とは、徳川幕府を頂点とし、各藩がその下に並ぶピラミッド型の体制なのであるが、幕末になるとそれが大きく崩れてくる。幕府が弱体化したのと薩摩や長州といった雄藩が実力を蓄えてきたことが大きな原因だが、もうひとつ忘れてはならないのは、朝廷の存在である。
京都の朝廷は徳川幕府の政策によって、経済的には力を持たず、政治的な発言も許されなかった。しかし、幕末になって勃興した尊王攘夷思想により、その存在はにわかに大きくなったのである。相対的に徳川幕府の地位は貶められ、幕府は朝廷からの委任によって政治を行っているにすぎないという思想が蔓延した。
この尊王攘夷思想が、徳川御三家の一つ水戸藩によって学問的に深められ、「水戸学」として普及したというのも皮肉な話である。しかし、水戸学の始祖ともいうべき徳川光圀の尊王攘夷は、必ずしも将軍家を否定するものではなかったようである。時代は徳川氏で安定しており、天皇はまさに形而上的な存在として奉られていたのである。
しかし、徳川氏の支配力は相対的に弱まり、変わって台頭してきた西南の雄藩は、天皇の持つカリスマ的な力を政治的に利用しようとしたのである。
この時代、誰もが尊王攘夷であった。徳川将軍家はもちろんのこと、新選組でさえも尊王攘夷であったのだ。たた、それぞれが尊王攘夷という思想をそれぞれの都合で自分なりに解釈していたにすぎない。
2009年10月26日
世なおりへの期待
世なおりへの期待感という意味では、最近私たちは同じような体験をしている。
自民党の総理大臣が国民の信頼を失って次々と変わっていく時、民主党は「政権交代」というスローガンを掲げはじめた。さまざまな政権公約に先立って、まずは「政権交代」をという訴えであった。
この作戦が成功したのかどうか、8月の総選挙では、民主党は308人という大量の当選者を出し、政権の座についたのである。人々の「政権交代」への漠然とした期待感がその背後にはあったのではないかと思われる。
「政権交代」という言葉を「世なおり」という言葉に直せば、慶応3年当時の人々の心情は多少は理解できるかもしれない。前年の一揆や打ちこわしの頻発にみられるように、人々の暮らしへの不安や不満は極限にまで達していた。
そして翌年、どうも世の中変わるらしいというあるいは変わってほしいという渇望が「ええじゃないか」の熱狂を生んだのではないだろうか。
さて、その薩長政権はそんな人々の願いにこたえることができたのか。あるいはそもそもそんな願いにこたえるつもりはあったのか。明治になって再び一揆や打ちこわしが頻発し、さらには士族の叛乱までも起るようになったという現実が、その答えの一端を示しているようなのだが、それにはまた別の考察が必要になる。
自民党の総理大臣が国民の信頼を失って次々と変わっていく時、民主党は「政権交代」というスローガンを掲げはじめた。さまざまな政権公約に先立って、まずは「政権交代」をという訴えであった。
この作戦が成功したのかどうか、8月の総選挙では、民主党は308人という大量の当選者を出し、政権の座についたのである。人々の「政権交代」への漠然とした期待感がその背後にはあったのではないかと思われる。
「政権交代」という言葉を「世なおり」という言葉に直せば、慶応3年当時の人々の心情は多少は理解できるかもしれない。前年の一揆や打ちこわしの頻発にみられるように、人々の暮らしへの不安や不満は極限にまで達していた。
そして翌年、どうも世の中変わるらしいというあるいは変わってほしいという渇望が「ええじゃないか」の熱狂を生んだのではないだろうか。
さて、その薩長政権はそんな人々の願いにこたえることができたのか。あるいはそもそもそんな願いにこたえるつもりはあったのか。明治になって再び一揆や打ちこわしが頻発し、さらには士族の叛乱までも起るようになったという現実が、その答えの一端を示しているようなのだが、それにはまた別の考察が必要になる。
2009年10月25日
世直しとええじゃないか
大政奉還から鳥羽伏見の戦いへと、時代は緊張の中で推移していく。それと並行するように「ええじゃないか」の熱狂がまちまちを席巻していった。この両者の間には何らかの関係があったのか。このような民衆の動きは、明治維新という大業の背後で、うごめいているものとして、背景のようにしか語られることがない。
あるいは、倒幕派が世間の混乱のためにおこした騒動であるとか、幕府がおこしたガス抜きだという風にもいわれるのだが、範囲が広いのと加わった人が多いことから考えれば、人為的というには無理があるようである。
「ええじゃないか」の発端は天から伊勢神宮のお札(伊勢神宮ではお札のことをお祓いとよんでいるので、正しくはお祓い)が降ってくるというものであった。これは60年周期で起ったといわれている「おかげ参り」も同じで、「ええじゃないか」は「おかげ参り」の一種であるとされる所以である。
民俗学者の宮田登氏は「ええじゃないか」の背景に、人々の豊穣への祈りの姿を見ている。(宮田登『江戸のはやり神』)すなわち、おかげ参りが凶作の翌年の豊作の年に行われること、踊って豊年を祈願するというような文句がはやし言葉の中に見られるというのである。
ここで思い出されるのが、天の岩戸の神話である。岩の陰に隠れた天照大神の関心をひくためにアメノウズメが踊り、神々がはやし立てるという話である。これを太陽の復活を願い、翌年の豊作を祈る祭りであると考える人もいる。
それではこの「ええじゃないか」はたまたま明治維新と軌を一にして起っただけで世直しとは何の関係もなかったのだろうか。私はおおいに関係があったと思っている。人々の豊作への期待というのは、すなわち五穀が豊かに実り、人々が安楽に暮らせる世への期待ということである。それを踊りという表現で神に訴え、神を喜ばすことで実現させていただこうという願いなのである。
折しも世の中が改まり、天子様中心の世の中になりそうな情勢である。次の世が人々にとって豊かでいい世であってほしいという願いも「ええじゃないか」の乱舞の中には込められていたのではなかったのか。そんな期待に膨らんだうきうきした気分というのが「ええじゃないか」にはある。
あるいは、倒幕派が世間の混乱のためにおこした騒動であるとか、幕府がおこしたガス抜きだという風にもいわれるのだが、範囲が広いのと加わった人が多いことから考えれば、人為的というには無理があるようである。
「ええじゃないか」の発端は天から伊勢神宮のお札(伊勢神宮ではお札のことをお祓いとよんでいるので、正しくはお祓い)が降ってくるというものであった。これは60年周期で起ったといわれている「おかげ参り」も同じで、「ええじゃないか」は「おかげ参り」の一種であるとされる所以である。
民俗学者の宮田登氏は「ええじゃないか」の背景に、人々の豊穣への祈りの姿を見ている。(宮田登『江戸のはやり神』)すなわち、おかげ参りが凶作の翌年の豊作の年に行われること、踊って豊年を祈願するというような文句がはやし言葉の中に見られるというのである。
ここで思い出されるのが、天の岩戸の神話である。岩の陰に隠れた天照大神の関心をひくためにアメノウズメが踊り、神々がはやし立てるという話である。これを太陽の復活を願い、翌年の豊作を祈る祭りであると考える人もいる。
それではこの「ええじゃないか」はたまたま明治維新と軌を一にして起っただけで世直しとは何の関係もなかったのだろうか。私はおおいに関係があったと思っている。人々の豊作への期待というのは、すなわち五穀が豊かに実り、人々が安楽に暮らせる世への期待ということである。それを踊りという表現で神に訴え、神を喜ばすことで実現させていただこうという願いなのである。
折しも世の中が改まり、天子様中心の世の中になりそうな情勢である。次の世が人々にとって豊かでいい世であってほしいという願いも「ええじゃないか」の乱舞の中には込められていたのではなかったのか。そんな期待に膨らんだうきうきした気分というのが「ええじゃないか」にはある。
2009年10月20日
龍馬死なずば つづき
坂本龍馬を好きだという人は多い。おそらく、歴史上の人物の中では一番の人気者なのではないかと思う。そんな龍馬だから生きていれば、日本の歴史を変えるほどの働きをしてくれたに違いないと、後世の人々が思うのも無理はない。
だが、坂本龍馬の評価が飛躍的に高くなったのは、戦後になって司馬遼太郎が「竜馬がゆく」を書いてからである。慶応3年当時の坂本龍馬が今ほどカリスマ的な力を持っていたわけではない。倒幕の意志を強く持っていた薩摩や長州を押さえて、自分の主張を通すことが果たしてできただろうか。
最近の歴史好きブームを見ていると、卓越した個人(英雄)の意志が歴史を作ってきたのだという、英雄史観のようなものが見え隠れするのである。明治維新にしても、西郷隆盛、木戸孝允、坂本龍馬といった英雄たちが、それぞれの強い意志をぶつけあうことによって、成し遂げられたのだという、まるでゲームのような感覚でとらえられているようだ。
そのように考えると、坂本龍馬という駒が一つ欠けるということは、歴史が全く変わってしまうほどの一大事なのだ。しかし、倒幕という意志は西郷や大久保個人のものというわけでもないのではないか。長い薩摩や長州の歴史と幕末の政治や経済の情勢、そういったものがからみあって醸成されてきたもののはずだ。
坂本龍馬の公議政体論にしても、決して竜馬の専売特許などではなく、横井小楠や後藤象二郎も同じような考えに立っていたのである。
坂本龍馬が暗殺されたことで、時代の歯車は微妙に狂いが生じたではあろうが、大きく歴史を変えるほどのものであったわけではない。
もし、龍馬が生き延びて戊辰戦争が回避されたとしても、それは龍馬個人の力によるのではなく、いろいろな要素が作用しあってのことなのではないか。
だが、坂本龍馬の評価が飛躍的に高くなったのは、戦後になって司馬遼太郎が「竜馬がゆく」を書いてからである。慶応3年当時の坂本龍馬が今ほどカリスマ的な力を持っていたわけではない。倒幕の意志を強く持っていた薩摩や長州を押さえて、自分の主張を通すことが果たしてできただろうか。
最近の歴史好きブームを見ていると、卓越した個人(英雄)の意志が歴史を作ってきたのだという、英雄史観のようなものが見え隠れするのである。明治維新にしても、西郷隆盛、木戸孝允、坂本龍馬といった英雄たちが、それぞれの強い意志をぶつけあうことによって、成し遂げられたのだという、まるでゲームのような感覚でとらえられているようだ。
そのように考えると、坂本龍馬という駒が一つ欠けるということは、歴史が全く変わってしまうほどの一大事なのだ。しかし、倒幕という意志は西郷や大久保個人のものというわけでもないのではないか。長い薩摩や長州の歴史と幕末の政治や経済の情勢、そういったものがからみあって醸成されてきたもののはずだ。
坂本龍馬の公議政体論にしても、決して竜馬の専売特許などではなく、横井小楠や後藤象二郎も同じような考えに立っていたのである。
坂本龍馬が暗殺されたことで、時代の歯車は微妙に狂いが生じたではあろうが、大きく歴史を変えるほどのものであったわけではない。
もし、龍馬が生き延びて戊辰戦争が回避されたとしても、それは龍馬個人の力によるのではなく、いろいろな要素が作用しあってのことなのではないか。