2013年12月29日

「真田戦雲録」(仮題)ようやく脱稿。


幸村の魅力について。負けることを知りながら、自らの信義を貫き通して散った好漢という通説は少し違うのではないか。大坂城の幸村は、人からは小柄な病気がちな初老の武将という印象を持たれていたようだ。また、戦いの前に故郷上田に出した書状には家族への細やかな心配り、自らの運命を静かに受け入れようとする思いを読み取ることができる。34歳で九度山に流された後の幸村は、経済的な困窮と孤独の中で世捨て人のような生活を送っていたようだ。そんな折届いた大坂からの誘いは、最後の生き場所、最後の死に場所と思えたのではないか。

兄の信之は、地味で目立たない男として、真田の物語でも影の存在である。しかし私は信之という人は相当に我の強い人であったと思っている。上田から松代に移封の際、上田城の植木を根こそぎ引き抜いて持って行ったという挿話が伝わっている。石垣までも持ち去ろうとしたようだが、流石にこれは動かなかった。京都に隠棲しようともしたらしい。
そういう思いを全て自らの心の奥に押し込めたのは、家のため家臣のため真田家を存続させるためであった。「例え片輪になられて候とも、御家のつづき候ように御生き候て下さるべく候」という城景重の忠言を守ったのである。
信之の辞世の歌が残されている。
西へちろり東へちろり暁の明星のごときわが身なりけり



Posted by 南宜堂 at 08:22│Comments(0)

 
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