2009年08月22日
龍馬と歳三 2
嘉永6年(1853)という年、二人はいったい何をしていたのか。年譜で追ってみると、坂本龍馬は3月剣術修行のため江戸に出かけている。一方の土方歳三は、江戸の呉服屋に奉公していることになっている。二人とも江戸にいたのである。
6月3日、浦賀沖に4隻の黒船が姿を現した。このとき、浦賀奉行所から小舟で駆けつけたのが、与力の中島三郎助であった。この突然の出来事に江戸中は大騒ぎになったと歴史書を見ると書かれているのだが、意外であったのは、ニュースを聞きつけた人々が、陸路から海路からいっせいに見物に押し寄せたというのである。
野次馬根性というのは今も昔も変わりないのかも知れない。幕府は再三にわたって「異国船見物禁止令」を出したが、ほとんど効き目はなかったようだ。わが松代藩の佐久間象山も大森から小舟を雇って黒船見物に向かっている。それほどに黒船の来航は、今で言ったらワイドショーのトップニュース、かつてのアイドルが覚せい剤使用で逮捕されたほどのニュース、知らないと馬鹿にされるような出来事であったということになる。
そんなニュースを前に、二人は見物に行かなかったのだろうか。権威あるNHKの大河ドラマ「新選組」では確か龍馬も歳三もそして近藤勇も見物に行ったということになっていたと思う。
黒船の来航に象徴されるような、迫りつつある異国の脅威に対して二人はどのように考えていたのか、このこともまたよくはわからない。龍馬が国元の父親に「異国船処々に来り候由に候へば、軍(いくさ)も近き内と存じ奉り候。その節は、異国の首を打取り帰国仕るべく候」と勇ましい手紙を送っているが、この時の龍馬を明確な尊王攘夷論者と決めつけることはできない。当時の武士誰もが抱くような感想なのである。
歳三はといえば、奉公先で女中を妊娠させたりしていろいろ問題を起こしていた。どちらかと言えば後の土方からは想像できないような軟派な印象の10代の土方歳三であったようだ。
黒船の来航に対し、二人がなんらかの直接のアクションを起こしたということはないのだが、この出来事はその後の国全体の動きに強く作用し、尊王攘夷運動を激化させ、二人はその渦の中に否応もなく巻き込まれていくのである。
6月3日、浦賀沖に4隻の黒船が姿を現した。このとき、浦賀奉行所から小舟で駆けつけたのが、与力の中島三郎助であった。この突然の出来事に江戸中は大騒ぎになったと歴史書を見ると書かれているのだが、意外であったのは、ニュースを聞きつけた人々が、陸路から海路からいっせいに見物に押し寄せたというのである。
野次馬根性というのは今も昔も変わりないのかも知れない。幕府は再三にわたって「異国船見物禁止令」を出したが、ほとんど効き目はなかったようだ。わが松代藩の佐久間象山も大森から小舟を雇って黒船見物に向かっている。それほどに黒船の来航は、今で言ったらワイドショーのトップニュース、かつてのアイドルが覚せい剤使用で逮捕されたほどのニュース、知らないと馬鹿にされるような出来事であったということになる。
そんなニュースを前に、二人は見物に行かなかったのだろうか。権威あるNHKの大河ドラマ「新選組」では確か龍馬も歳三もそして近藤勇も見物に行ったということになっていたと思う。
黒船の来航に象徴されるような、迫りつつある異国の脅威に対して二人はどのように考えていたのか、このこともまたよくはわからない。龍馬が国元の父親に「異国船処々に来り候由に候へば、軍(いくさ)も近き内と存じ奉り候。その節は、異国の首を打取り帰国仕るべく候」と勇ましい手紙を送っているが、この時の龍馬を明確な尊王攘夷論者と決めつけることはできない。当時の武士誰もが抱くような感想なのである。
歳三はといえば、奉公先で女中を妊娠させたりしていろいろ問題を起こしていた。どちらかと言えば後の土方からは想像できないような軟派な印象の10代の土方歳三であったようだ。
黒船の来航に対し、二人がなんらかの直接のアクションを起こしたということはないのだが、この出来事はその後の国全体の動きに強く作用し、尊王攘夷運動を激化させ、二人はその渦の中に否応もなく巻き込まれていくのである。