2009年08月15日

山家神社

 菅平高原から、神川に沿って下つた場所が真田一族の原郷である旧真田町である。真田町はいくつかの村が合併してできた町だが、その名を決めるとき、全国的に有名な真田氏にちなんで真田町とつけたのだという。
 その真田町の小字に真田の名が残っている。真田集落の中心には山家神社がある。山家神社は小県に4社ある「延喜式内社」のひとつで、由緒は古い。この地区の産土神であるとともに加賀の白山社を合祀している。
 この山家神社は里宮で、奥宮は四阿山山頂にある。四阿山は日本百名山の一つでもあるが、修験の山としても古くから信仰を集めていた。
 ここを本貫地とする真田氏のはじめは、戦国時代各地に割拠する小豪族のひとつであったろうと思われる。現代のように稲作の技術や灌漑が発達した時代と違い、冷涼で平坦地が少ない中世の真田は、稲作も十分には行えなかったのではないかと思われる。真田が大きくなるのは幸隆の時代であり、武田氏に臣従し武田氏とともに領土を拡大していったからである。
 そんな小豪族真田が信濃の地で大名にまで上り詰められたのは、幸隆以前の時代から、四阿山の修験や菅平の放牧を通して京や全国の有力な豪族との関係が基礎としてあったからではないかというのが私見である。
 上田からここ真田までかつて電車が走っていたことがあった。上田交通真田・傍陽線である。昭和47年に廃線となったのだが、10年ほど前、その廃線の跡を訪ねた。終点の真田駅は山家神社の近く、現在は農協の支所となっているあたりにあったと記憶している。菅平高原への誘客の手段にという意図もあったのだろうが、当時の上田交通社長小島大治郎は「山に植林したつもりで」と建設を決意したのだという。
 その旧真田駅のあたりから登り坂を山家神社に向かって歩いてみる。菅平から上田に向かう道路がもっと神川に近い場所に建設されたせいか、走る車も少ない。落ち着いたいい集落である。
 山家神社は深い社叢のなかに拝殿が建つ。この森は意外にも歴史が新しいのだという。明治20年の真田大火で大方が焼け、大正のはじめ植林されたものが育ったのである。とすれば、真田の集落はこの時の大火で大きな被害を受けたのだ。
 天文10年(1541)、武田・村上・諏訪の連合軍が小県の地に攻め入り、海野平で海野氏を破った。このとき、真田幸隆は海野氏とともに上野に逃れたのだが、それまで真田氏の屋敷はここ山家神社の近くにあったのだといわれている。
 屋敷跡はもちろん、集落も今ではどんなものであったのか痕跡も残っていないのだが、山家神社の森にたたずんでいると、山々に囲まれた平和な集落の姿が思い浮かんでくるのである。

  

Posted by 南宜堂 at 10:42Comments(0)真田十勇士

2009年08月13日

真田の郷へ

 旧北国街道、現在の国道18号線は、千曲川に沿うように上田と長野を結んでいる。昔も今もこの道がなだらかで歩きやすい道だったと思うのだが、松代藩士佐久間象山は、地蔵峠を越えて上田の活文禅師のもとに勉学に通ったのだという。
 松代から上田の城下に行くためには確かに地蔵峠を越える道が距離的には近い。しかし、地蔵峠(標高860メートル)までは相当にきつい登り坂である。昔の人というのは山道をそれほど苦にしなかったのだろうか。
 車の時代となった現代では、峠道は苦にならないから、長野・上田間の最短距離の道として、地蔵峠越えをする車が多い。

 真田氏発祥の地を見たいと思った。かつての小県郡真田町(現在の上田市真田)は、地蔵峠の上田からの登り口に位置する町である。そんなわけで、真田に行くには、地蔵峠越えが最短なのだが、菅平を越えて行く事にした。かつての保科道である。長野から千曲川を渡り、川田、保科と登りが急になる。冬期間は通行止めになる道である。
 菅平を通ったのは、古代ここが馬の一大放牧地ではなかったかという説を自分の目で確かめたかったからである。菅平高原は冬はスキー場として夏は大学のラグビー部の合宿地として全国的にその名が知られている。標高1000メートルを越える冷涼で広大な高原に馬が放牧されていたという事は十分に頷ける説である。
 この説を唱えているのは、故一志茂樹を中心とする東信史学会の人々である。小県地方に国府が置かれていた時代、国府直属の国牧が真田の地に置かれていたのではないか。それは、牧ノ平という地名が真田地区には数多く残っていること、また牧につきものの駒形神社が真田にある事などから想定できる。
 この真田にあった国営の牧の経営に当たったのが大伴氏の一族であり、真田氏はその流れを汲む豪族ではないかというのが一志氏らの推定なのである。
 しかし、一般には真田氏は小県の名家海野氏の一族であるといわれ、海野氏はまた京から下向した滋野氏の末裔であるという事になっている。真田氏が歴史に名を現すのは、真田幸隆の代になってからである。江戸時代、真田家が定めた系図によると、海野宗家を継いだ幸隆が、真田の地に住むようになり真田を姓にしたという事になっている。
 この記述は歴史的な事実と矛盾する。すなわち、天文10年、武田・諏訪・村上連合軍に攻められた海野氏は、海野平の戦いで敗れ、当主である棟綱は、一族の真田幸隆とともに上州に逃れたのである。このとき、海野家の当主は棟綱であり、真田家の当主は幸隆であるのだ。そんな矛盾から、棟綱の娘婿が幸隆であるという説が現在では有力である。
  

Posted by 南宜堂 at 10:46Comments(0)真田十勇士

2009年08月10日

海舟嫌い つづき

 私は心情的には福沢諭吉を支持したい。日本人の感性の多くは福沢に傾いていると思われる。特に維新後の身の処し方については、徳川の禄を食んできた身であれば、徳川幕府崩壊後に、それを倒した側に雇われるというのはなかなか納得がいかないのだ。
 しかし一方で、福沢諭吉の論にも危険なものを感じる。国家というのは人間社会の自然の形ではないというのが福沢の考えである。しかし、同じ言語や風習をもつもの、あるいは日常の交易圏のもの同士が集まって国家ができたとする。この国家は人間によりつくられたものではあるのだが、長い歴史を刻んでいく中で、もともと備わったもののように思われたり、国を愛する気持ちとか、それを統治する君主への忠誠心が生ずるという事も大事にしなければならない。そうすることにより社会に秩序が生まれ、発展もしていくのである。
 そんな国家(幕府)が存亡の時に当たって、勝海舟はどうしたのか。「然るを勝氏は予め必敗を期し、その未だ実際に敗れざるに先んじて自から自家の大権を投棄し、ひたすら平和を買わんとて勉めたる者なれば、兵乱のために人を殺し財を散ずるの禍をば軽くしたりといえども、立国の要素たる瘠我慢の士風を傷うたるの責は免かるべからず。」
 だがこの福沢諭吉の論を進めていくと、太平洋戦争末期、国体の護持を旗印に多くの国民を死に追いやった論理にもつながるのではないか。「殺人散財は一時の禍にして、士風の維持は万世の要なり。」という福沢の論理には道徳的ではあるが、危険なものがかんぜられないだろうか。
 このようにいう福沢諭吉の廻りには一人の潔い武士の姿があった。万延元年咸臨丸の船将として勝とともにアメリカに渡った木村摂津守である。木村は維新後いっさいの公職に就かず、清貧の生活に甘んじて世を去ったという。自分より身分の低かった福沢に対し、維新後は「先生」と敬って交わった。
 勝海舟という人は現実主義者であったようだ。福沢諭吉の批判に対しては何の反論もしているわけではないが、あの混乱した状況の中で、取りうるべき最良の方法をとったのだという自負はあっただろう。その後の混乱は勝としては想定外のこととしてやむを得ないと思ったのであろう。実際勝海舟は戦争になった時の準備として、鳶の手を借りて江戸の町を焼き払う事まで考えていたという。
 明治維新後の身の処し方と晩年の「氷川清話」のほら話で勝海舟は損をしているようだ。しかしこれは勝海舟という人の人間性の問題であり、まわりがとやかく言う事ではないのかもしれない。  

Posted by 南宜堂 at 11:10Comments(0)幕末・維新

2009年08月09日

海舟嫌い

 勝海舟の評価については、毀誉褒貶相半ばするといっていいが、こと戊辰戦争の敗者の側に立つ人々の間ではすこぶる評判が悪い。
 評価する人々は、江戸を戦火から守った恩人、戊辰戦争の犠牲者を最小限にとどめたのは勝海舟の功績であるとする。
 一方でいわれるのは、幕臣でありながら最後まで戦う事なく、ひたすら恭順の姿勢をしめしたことの卑屈さへの批判といったらいいのだろうか。
 それで思い出されるのは、明治34年(1901)1月1日号の「時事新報」に掲載された福沢諭吉の「瘠我慢の説」である。福沢はこの論文の中で、徳川の衰退を父母の大病にたとえて次のように記している。「父母の大病に回復の望なしとは知りながらも、実際の臨終に至るまで医薬の手当を怠らざるがごとし。これも哲学流にていえば、等しく死する病人なれば、望なき回復を謀るがためいたずらに病苦を長くするよりも、モルヒネなど与えて臨終を安楽にするこそ智なるがごとくなれども、子と為りて考うれば、億万中の一を僥倖しても、故らに父母の死を促がすがごときは、情において忍びざるところなり。」
 ここで福沢は、国家といえども私的なものであって、公のものではないと言っている。もともとは国などなく、人々は自由に行き来し、生産し交易をしていたのである。しかし、現実には人々は、国を立てまた政府を設けてきたのである。そして、その国に固執するあまり忠君愛国の情も生まれ、それを国民最上の美徳と称するようになったのである。「故に忠君愛国の文字は哲学流に解すれば純乎たる人類の私情なれども、今日までの世界の事情においてはこれを称して美徳といわざるを得ずなり」ということなのである。
 このような認識から福沢諭吉は、明治維新における勝海舟を「左れば自国の衰頽に際し、敵に対して固より勝算なき場合にても、千辛万苦、力のあらん限りを尽し、いよいよ勝敗の極に至りて始めて和を講ずるか、もしくは死を決するは立国の公道にして、国民が国に報ずるの義務と称すべきものなり。すなわち俗にいう瘠我慢なれども、強弱相対していやしくも弱者の地位を保つものは、単にこの瘠我慢に依らざるはなし。」として批判するのである。
 ちょっと引用が長く、論理が錯綜してしてしまった感があるが、要するに福沢諭吉は、徳川といえども300年にわたって幕臣たちによってつくられ、支えられてきた公理である。勝海舟のように戦わずして白旗を掲げるは「日本の経済において一時の利益を成したりといえども、数百千年養い得たる我日本武士の気風を傷うたるの不利は決して少々ならず。」というのである。
 さらに、諭吉は維新後の海舟が薩摩・長州のなど敵国の人士と並んで顕官となったことについても批判の矛先を向けている。
 この福沢諭吉の批判は、勝海舟としても大いに反論したいところであろう。海舟はある時点で徳川幕府を見限っていた。徳川は藩ではないが、ある意味では精神的な脱藩者とでもでもいうべき心境にあった。その海舟が滅びる徳川幕府に対して瘠我慢なぞするいわれはないのである。  

Posted by 南宜堂 at 23:21Comments(3)幕末・維新

2009年08月07日

象山嫌い

 佐久間象山という人は、同時代の人々にはあまり好かれていなかったらしい。弟子で義兄弟である勝海舟が「あれだけの人物であった」というようなことを言っているし、河井継之助もその識見には感服したものの、人物については好きになれなかったようなのである。
 こういう事を聞かされると信州人としては穏やかではない。なんといっても、象山は信州では第一級の偉人なのだから。県歌「信濃の国」、この歌は信州人なら誰でもが歌える、には「国は偉人の出るならい」として、木曾義仲・太宰春台・仁科信盛とともに代表的な偉人とされているのだ。
 象山を好きになれなかった人たちも、その学問の深さや弁舌の巧みさには一目も二目も置いているのだが、人間性には問題ありとしている。そんな同時代人の象山評が現代に語り継がれているのか、今になっても象山の評価はよくない。
 そういう気分的なものだけではなく、象山の評価を下げている要因がまだあるとして、多くの資料に当たりながら象山を再評価をしようとした人がいる。信州佐久の出身である作家の井出孫六さんだ。(「小説 佐久間象山」)
 井出さんによると、後世にまで象山の評判をおとしめている一番の理由は「象山未練説」とよばれるものなのだという。佐久間象山のように危害を逃れようといたずらに理屈をこねるよりも、吉田松陰のように潔く罪を認める方が優れているというのである。こういう説がその時代には広く信じられていたようで「とくに松陰の生地萩などには根強くそのまま残っていたであろう。その上、後年、蟄居を解かれた象山は、攘夷論の風が渦巻く京都にのぼって、開国論を説いた。攘夷論をからませた倒幕にまなじりを決していた長州藩士たちの目には、象山が不倶戴天の存在として映った。」
 しかし、この「象山未練説」は、象山の真意を理解できない人々の誤解にもとずくものであった。吉田松陰は密航の実行者であるのだが、彼はこのことが国禁を犯すものである事は十分に理解していた。だからそれが失敗したとき潔くその罪を認めたのである。
 これに対して教唆犯とされる象山は、黒船の来航という未曾有の危機に際して、松陰のような有能な士が海外に渡り、国を守るに必要な知識を持ち帰る事がどうして国禁を犯すものであろうかと持論を展開したのである。こういう主張が、回りには自らの罪を免れるための詭弁ではないかと映ったのである。
 どうも佐久間象山という人は腹芸のできなかった人のようである。彼のように奉行を前に堂々と持論を展開したのではどう考えても心証が良くなるはずはない。そのことを象山はわからなかったのだろうか。象山という人が同時代の人々に評判が良くないのは、そんな相手の顔色を伺いながら話すという事ができなかったからのような気がする。
写真は長野市の八幡原史跡公園に建つ佐久間象山像(撮影、A.H.氏)
  

Posted by 南宜堂 at 23:37Comments(0)幕末・維新