2012年02月12日

コアキナイ

年の割には、これで好奇心旺盛の方かなと思っている。ブログ、Facebook、ツイッターと新しいものにはすぐに手を出したくなる。でも、ツイッターは言葉が断片的だし、仲間内の隠語めいたものが多くて、最近はついて行っていない。
その仲間内の言語のようなものだろうか、「小商い」ということばをよく目にするようになった。小商いといったら私らの商売そのものじゃないか。だが、いまどきそんな古風な言い方をするだろうか。これはたぶん何処かに発信源があるだろうと、狙いをつけて検索すると、ミシマ社という小さな出版社から出ている平川克美著「小商いのすすめ」という本にたどり着いた。

「身の回りの人間的なちいさな問題を、自らの責任において引き受けることだけが、この苦境を乗り越える第一歩になる」
ということのようだが、この著者はこういうことを読者個人に向かって言っているのだろうか、それとも日本経済に向かって言っているのだろうか。もし、私に向けての言葉なら「自営業者の私は、もう何年にもわたってしてきています」ということになるし、日本経済になら勧めるだけでそんな転換が可能なのかなと思う。
いずれにせよ、興味深いテーマだし買ってみようと思う。取り扱い書店一覧に近くの「ひふみよ」さんがあるので聞いてみよう。彼のところも小商いだ。

この本とは直接関係ないのかもしれないが、今日見たビデオ木下恵介の「夕やけ雲」の舞台は昭和30年代はじめの下町の魚屋だ。金がなくて、せっかくの注文を受けた仕出しを断らなければならないという惨めな思いをする。
この時代小商いの魚屋や八百屋が当たり前だった。私の住んでいた田舎は店がなくて、行商の魚屋が自転車に荷をつけてやってきた。今私の店のある東町には魚屋がずいぶんあったと聞いているが、今では1軒もない。昭和30年代はじめの松本の片田舎と同じだ。しかし、今は行商の魚屋はやって来ない。代わりに、郊外のスーパーマーケットに車で買い出しに行くのである。
町の魚屋さんは廃業したのだろう。小商いで小金を貯め、子供を大学にやって、どこかの会社に就職させ、その会社がイトーヨーカドーとか西友とかで、子供はどこかのスーパーマーケットで店長かなんかをしているのかもしれない。
このスーパーマーケットの店長の息子は、小商いの魚屋の親父より幸せなのかという問題だろうか。先ほどの「夕やけ雲」の魚屋の息子は、高校を中退して親の跡を継いで魚屋になった。最後は腕を上げて店は繁盛するという木下恵介的な終わり方だが、これから10年もしないうちにスーパーマーケット全盛の時代が来るのである。
小商いのことは本を読んでからまた書こう。
コアキナイ


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Posted by 南宜堂 at 02:10│Comments(0)雑記

 
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