2012年02月29日
捨て童子松平忠輝
松代藩の歴史もようやく松平忠輝の死まで進んだ。この人は長命で、92歳まで生きている。その大半が幽閉生活を余儀なくされており、自由というものはなかった。いわば若くして晩年を生かされたようなもので、活動的であったとされる忠輝にとってこの生活は苦痛であったことだろう。
こうまで兄徳川秀忠に嫌われ、恐れられたのはなぜなのか。『捨て童子松平忠輝』の作者隆慶一郎は、忠輝の付家老大久保長安が野心家で、全国の切支丹を糾合し、忠輝を盟主として幕府の転覆を謀ろうとしていたと書いている。
この説は、まんざら小説家の想像の産物というわけではないようだ。忠輝が伊勢朝熊に流された時、秀忠は全国の大名に命じ、碓氷の関を固めさせ、江戸への街道にも厳重な警戒をさせている。もっとも、この時は大久保長安が死んだ後で、秀忠の恐れは忠輝の岳父である伊達政宗にあったようだ。
忠輝は生涯上総介と呼ばれることを好んだという。上総介織田信長にあやかってのことという。戦国の乱世にあって信長は天下人にまで上り詰めた。しかし、忠輝が暴れるには時代があまりにも違いすぎた。もはや戦国は遠い昔の語り草となっていたのである。忠輝に天下取りの野望はあったのか。隆慶一郎は、あくまで天衣無縫の自然児であった忠輝には微塵もそんな野心はなかった、長安らの暗躍に利用されただけとしている。
残念ながら、このあたりには忠輝の事績を語るものは何も残されていない。ここの領主であった頃はまだ十代で、ほとんどが江戸住まいであったのだから仕方がない。しかし、晩年を過ごした地諏訪には、墓と菩提寺の貞松院には遺品も残されているという。
野風の笛といわれるもので、この笛は織田信長が愛用し、信長の死後は豊臣秀吉、徳川家康と受け継がれた笛であるという。この笛を家康が茶阿局を通して忠輝に贈ったのだという。
取材を兼ねて訪ねてみようと思っている。

こうまで兄徳川秀忠に嫌われ、恐れられたのはなぜなのか。『捨て童子松平忠輝』の作者隆慶一郎は、忠輝の付家老大久保長安が野心家で、全国の切支丹を糾合し、忠輝を盟主として幕府の転覆を謀ろうとしていたと書いている。
この説は、まんざら小説家の想像の産物というわけではないようだ。忠輝が伊勢朝熊に流された時、秀忠は全国の大名に命じ、碓氷の関を固めさせ、江戸への街道にも厳重な警戒をさせている。もっとも、この時は大久保長安が死んだ後で、秀忠の恐れは忠輝の岳父である伊達政宗にあったようだ。
忠輝は生涯上総介と呼ばれることを好んだという。上総介織田信長にあやかってのことという。戦国の乱世にあって信長は天下人にまで上り詰めた。しかし、忠輝が暴れるには時代があまりにも違いすぎた。もはや戦国は遠い昔の語り草となっていたのである。忠輝に天下取りの野望はあったのか。隆慶一郎は、あくまで天衣無縫の自然児であった忠輝には微塵もそんな野心はなかった、長安らの暗躍に利用されただけとしている。
残念ながら、このあたりには忠輝の事績を語るものは何も残されていない。ここの領主であった頃はまだ十代で、ほとんどが江戸住まいであったのだから仕方がない。しかし、晩年を過ごした地諏訪には、墓と菩提寺の貞松院には遺品も残されているという。
野風の笛といわれるもので、この笛は織田信長が愛用し、信長の死後は豊臣秀吉、徳川家康と受け継がれた笛であるという。この笛を家康が茶阿局を通して忠輝に贈ったのだという。
取材を兼ねて訪ねてみようと思っている。

Posted by 南宜堂 at 02:16│Comments(0)
│雑記