2008年03月06日
姨捨伝説について 1
姨捨も無人駅になってしまいました。長野と松本の間にある何のへんてつもない駅なのですが、鉄道ファンの間では有名な駅なのだそうです。今は日本の鉄道では貴重なものとなったスイッチバックがいまだに行われている駅としてです。
スイッチバックについては、線路が急勾配であるため駅がつくれず、引き込み線にして平らな場所に駅をつくるだというようなことを小学校の社会科の時間に教わったように記憶しています。しかし、ここ姨捨駅は特急は停車しませんから、鈍行に乗ったときだけスイッチバックが体験できるというわけです。
もうひとつ姨捨駅を有名にしているのは、駅からの眺めです。まさに善光寺平を一望するという見事な景色が眼下に広がっているのです。日本三大車窓からの眺めだそうです。ただしこちらはここに停車しない特急列車からも眺めることができますし、もっと標高の高いところには姨捨サービスエリアというのがあって、この景色は鈍行だけの特権というわけにはいきません。
本当にひさしぶりに列車に乗って姨捨に行って来ました。駅に降りて、線路を渡り、長楽寺への細い道を下ります。長楽寺は松尾芭蕉が「更科紀行」の旅で作ったといわれる「俤や姥ひとり泣く月の友 」の句碑のある寺で、一茶をはじめ多くの句碑が境内に点在し、俳句ファンには有名な観月の名所です。
そのもととなったのは、おそらく「古今和歌集」にある読み人知らずのこの歌です。
わが心慰めかねつ更級や姨捨山に照る月を見て
昔の人の共通認識、もちろん庶民は入りません、いわゆる殿上人といわれるような人々のことですが、というのは有名な歌を媒介にして月の名所といったら姨捨、桜といえば吉野というように、行ったことがなくても見たことがなくても有名な場所として定着していたのです。ですから、芭蕉が「奥の細道」の旅で白河の関を訪れ、そこに何もなくてもかの能因法師の「都をば……」の歌を思い感慨を新たにするのです。
ですから、実際の姨捨がどんな場所であろうと、中秋の名月の頃にここを訪れることが大切だったわけです。
もうひとつ、古来より姨捨を有名にしていたのは「棄老伝説」です。これは、「大和物語」や「今昔物語」にある話で、「わが心……」の歌が下敷きになっています。「大和物語」には次のように記されています。
信濃の国に更級といふ所に、男住みけり。若きときに親死にければ、をばなむ親のごとくに、 若くよりあひ添ひてあるに、この妻の心、いと心憂きこと多くて、この姑の老いかがまりて ゐたるを常ににくみつつ、男にも、このをばの御心の、さがなくあしきことを言ひ聞かせければ、 昔のごとくにもあらず、おろかなること多く、このをばのためになりゆきけり。このをば、いと いたう老いて、二重にてゐたり。これをなほ、この嫁、所狭がりて、今まで死なぬことと思ひて、 よからぬことを言ひつつ、「持ていまして、深き山に捨て給びてよ。」とのみ責められわびて、 さしてむと思ひなりぬ。
月のいと明かき夜、「媼ども、いざ給へ。寺に尊きわざすなる、見せ奉らむ。」と言ひければ、 限りなく喜びて負はれにけり。高き山のふもとに住みければ、その山にはるばると入りて、高き 山の峰の、下り来べくもあらぬに置きて逃げて来ぬ。「やや。」と言へど、いらへもせで逃げて、 家に来て思ひをるに、言ひ腹立てける折は、腹立ちて、かくしつれど、年ごろ親のごと養ひつつ あひ添ひにければ、いと悲しくおぼえけり。この山の上より、月もいと限りなく明かくて出でたる を眺めて、夜一夜寝られず、悲しくおぼえければ、かくよみたりける、
わが心慰めかねつ更級や姨捨山に照る月を見て
とよみてなむ、また行きて迎へ持て来にける。それよりのちなむ、姨捨山といひける。 慰めがたしとは、これがよしになむありける。
(第百五十六段)
個人的な感想を申せば、この歌から姨捨の物語をつくるなんてすごい飛躍した想像力であることよと思ってしまうのですが。この歌は姨捨山に照る月を見て、都を思うのか故郷を思うのか感慨にふけっている歌だと思うのですが、なぜかこの読み人知らず氏には育ての親ともいうべき伯母さんがいて、この人が嫁との折り合いが悪かった。それで嫁に山へ棄ててきてしまえとそそのかされて、泣く泣く棄てに行く。しかし、帰ってきて伯母さんを棄てた姨捨山を見て「わが心慰めかねつ」という気持ちとなり迎えに行くという物語です。
いかに信州人が教養人であろうとも、姨捨山の麓に住んでいる食うや食わずのお百姓さんがこういう和歌をつくるかとまぜっかえしたくもなります。もっとも、信州の山奥に住んでいるお婆さんが風呂を焚きながら「世界」を読んでいたという伝説があるくらいですからまんざら嘘とも言えませんが。
スイッチバックについては、線路が急勾配であるため駅がつくれず、引き込み線にして平らな場所に駅をつくるだというようなことを小学校の社会科の時間に教わったように記憶しています。しかし、ここ姨捨駅は特急は停車しませんから、鈍行に乗ったときだけスイッチバックが体験できるというわけです。
もうひとつ姨捨駅を有名にしているのは、駅からの眺めです。まさに善光寺平を一望するという見事な景色が眼下に広がっているのです。日本三大車窓からの眺めだそうです。ただしこちらはここに停車しない特急列車からも眺めることができますし、もっと標高の高いところには姨捨サービスエリアというのがあって、この景色は鈍行だけの特権というわけにはいきません。
本当にひさしぶりに列車に乗って姨捨に行って来ました。駅に降りて、線路を渡り、長楽寺への細い道を下ります。長楽寺は松尾芭蕉が「更科紀行」の旅で作ったといわれる「俤や姥ひとり泣く月の友 」の句碑のある寺で、一茶をはじめ多くの句碑が境内に点在し、俳句ファンには有名な観月の名所です。
そのもととなったのは、おそらく「古今和歌集」にある読み人知らずのこの歌です。
わが心慰めかねつ更級や姨捨山に照る月を見て
昔の人の共通認識、もちろん庶民は入りません、いわゆる殿上人といわれるような人々のことですが、というのは有名な歌を媒介にして月の名所といったら姨捨、桜といえば吉野というように、行ったことがなくても見たことがなくても有名な場所として定着していたのです。ですから、芭蕉が「奥の細道」の旅で白河の関を訪れ、そこに何もなくてもかの能因法師の「都をば……」の歌を思い感慨を新たにするのです。
ですから、実際の姨捨がどんな場所であろうと、中秋の名月の頃にここを訪れることが大切だったわけです。
もうひとつ、古来より姨捨を有名にしていたのは「棄老伝説」です。これは、「大和物語」や「今昔物語」にある話で、「わが心……」の歌が下敷きになっています。「大和物語」には次のように記されています。
信濃の国に更級といふ所に、男住みけり。若きときに親死にければ、をばなむ親のごとくに、 若くよりあひ添ひてあるに、この妻の心、いと心憂きこと多くて、この姑の老いかがまりて ゐたるを常ににくみつつ、男にも、このをばの御心の、さがなくあしきことを言ひ聞かせければ、 昔のごとくにもあらず、おろかなること多く、このをばのためになりゆきけり。このをば、いと いたう老いて、二重にてゐたり。これをなほ、この嫁、所狭がりて、今まで死なぬことと思ひて、 よからぬことを言ひつつ、「持ていまして、深き山に捨て給びてよ。」とのみ責められわびて、 さしてむと思ひなりぬ。
月のいと明かき夜、「媼ども、いざ給へ。寺に尊きわざすなる、見せ奉らむ。」と言ひければ、 限りなく喜びて負はれにけり。高き山のふもとに住みければ、その山にはるばると入りて、高き 山の峰の、下り来べくもあらぬに置きて逃げて来ぬ。「やや。」と言へど、いらへもせで逃げて、 家に来て思ひをるに、言ひ腹立てける折は、腹立ちて、かくしつれど、年ごろ親のごと養ひつつ あひ添ひにければ、いと悲しくおぼえけり。この山の上より、月もいと限りなく明かくて出でたる を眺めて、夜一夜寝られず、悲しくおぼえければ、かくよみたりける、
わが心慰めかねつ更級や姨捨山に照る月を見て
とよみてなむ、また行きて迎へ持て来にける。それよりのちなむ、姨捨山といひける。 慰めがたしとは、これがよしになむありける。
(第百五十六段)
個人的な感想を申せば、この歌から姨捨の物語をつくるなんてすごい飛躍した想像力であることよと思ってしまうのですが。この歌は姨捨山に照る月を見て、都を思うのか故郷を思うのか感慨にふけっている歌だと思うのですが、なぜかこの読み人知らず氏には育ての親ともいうべき伯母さんがいて、この人が嫁との折り合いが悪かった。それで嫁に山へ棄ててきてしまえとそそのかされて、泣く泣く棄てに行く。しかし、帰ってきて伯母さんを棄てた姨捨山を見て「わが心慰めかねつ」という気持ちとなり迎えに行くという物語です。
いかに信州人が教養人であろうとも、姨捨山の麓に住んでいる食うや食わずのお百姓さんがこういう和歌をつくるかとまぜっかえしたくもなります。もっとも、信州の山奥に住んでいるお婆さんが風呂を焚きながら「世界」を読んでいたという伝説があるくらいですからまんざら嘘とも言えませんが。
Posted by 南宜堂 at
11:40
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