2008年03月22日
世捨てについて その1
その西行ですが、彼はどうも幻の歌枕を見るためにわざわざみちのくまで旅をしたようです。尊敬する能因法師の後を追って白河の関を越えているのです。
都をば霞とともに立ちしかど秋風ぞ吹く白河の関
一般にはこの歌、作者能因法師が実際に白河の関に行って作ったということになっておりまして、西行もそれを信じていたようです。しかし、歌枕の当時のルールというのは、実際に行かなくてもいいんだ。行ったように詠みさえすればということですから、能因法師都にいて作ったにしても非難されるものではありません。昔の旅ですから、長い道中何があるかわかりません。まさに命がけの旅だったわけです。歌枕を見るためなどと言って旅立つことはよほど風流人でもなければできなかったでしょう。まさに風流をするのも命がけだったのです。彼は行ってきますと言って旅立ちはしたが、実際は行かずにじっと屋敷にこもっていて、日焼けなどしてぼろぼろの衣をまとって行ってきましたと現れたという説もあります。手みやげに薄皮まんじゅうなどもってくればもっと信憑性があったかもしれません。
ところが、西行はこの命がけの風流の旅をやったようなのです。
都をば霞とともに立ちしかど秋風ぞ吹く白河の関
一般にはこの歌、作者能因法師が実際に白河の関に行って作ったということになっておりまして、西行もそれを信じていたようです。しかし、歌枕の当時のルールというのは、実際に行かなくてもいいんだ。行ったように詠みさえすればということですから、能因法師都にいて作ったにしても非難されるものではありません。昔の旅ですから、長い道中何があるかわかりません。まさに命がけの旅だったわけです。歌枕を見るためなどと言って旅立つことはよほど風流人でもなければできなかったでしょう。まさに風流をするのも命がけだったのです。彼は行ってきますと言って旅立ちはしたが、実際は行かずにじっと屋敷にこもっていて、日焼けなどしてぼろぼろの衣をまとって行ってきましたと現れたという説もあります。手みやげに薄皮まんじゅうなどもってくればもっと信憑性があったかもしれません。
ところが、西行はこの命がけの風流の旅をやったようなのです。
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23:47
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2008年03月20日
歌枕について
戸隠には「西行桜」と呼ばれる桜の木があるのだそうですが、まだ見たことはありません。西行が旅の途中戸隠に詣ったという言い伝えがあります。しかし、西行の伝記を調べてもそんなことは書いてない。どうもこれは伝説であって事実ではないようです。同様に弘法大師空海も信州各地にその名を残していますが、これも伝説のようです。
空海や西行がいかに旅の名人であったにせよ、昔の旅というのは誰もがそう簡単にできるものではなかったようです。それにしては昔の歌集など見ると、全国各地を詠んだ和歌が収録されていたりして、歌人というのは全国各地を旅して歩いて、名所名所で歌を詠んでいたのかと錯覚してしまうのはなぜなのでしょう。
例えば、坂上是則の作というこの歌
園原や伏屋に生ふる帚木のありとてゆけど逢はぬ君かな
園原は「信濃の国」にも歌われる「たずねまほしき園原」の園原です。場所は下伊那郡阿智村です。ここに生える箒木は、遠くから見ると箒のように見えるのに近づくと見えなくなるという伝説があって、それに取材したのがこの歌です。それでは作者の坂上是則は実際に阿智村まで来てこの歌を作っているのかというと、おそらく来てはいないのではないかと思われます。
同様に、例の姨捨の歌や久米路橋の歌も現地で作られていない可能性が高いのです。それはどうもルール違反なんじゃないかと、現代に生きる私たちは思うのですが、昔はそうではなかったようです。そのへんを解明するキーワードが「歌枕」といわれるものです。
「歌枕」とは、「歌を詠むときの典拠とすべき枕詞・名所など。」あるいは「古歌に詠み込まれた諸国の名所。」と「広辞苑」にはありますが、要するに歌に詠まれるような有名な場所ということでしょう。
当時の貴族社会にあってはそういう教養というのが蔓延していたようで、姨捨伝説にしろ箒木伝説にしろ、知っているのが当たり前、知らない人は無教養、歌など詠む資格がない人ということになったのでしょう。
そこに行ったことがあるのかないのかなんぞということはどうでもよくて、その名所のバックグランドについての豊富な知識をもとに歌を作るのがまことの教養人であったのでしょう。
後世の人々は、そんな都で作られた地方の歌を有り難がって歌碑なんかをつくっていたりしますが、あくまでもそれは昔都でこの場所はこんなに有名だったのですよということなのであって、あの著名人の誰々さんがこの地でこんな歌を作りましたということではないようです。
空海や西行がいかに旅の名人であったにせよ、昔の旅というのは誰もがそう簡単にできるものではなかったようです。それにしては昔の歌集など見ると、全国各地を詠んだ和歌が収録されていたりして、歌人というのは全国各地を旅して歩いて、名所名所で歌を詠んでいたのかと錯覚してしまうのはなぜなのでしょう。
例えば、坂上是則の作というこの歌
園原や伏屋に生ふる帚木のありとてゆけど逢はぬ君かな
園原は「信濃の国」にも歌われる「たずねまほしき園原」の園原です。場所は下伊那郡阿智村です。ここに生える箒木は、遠くから見ると箒のように見えるのに近づくと見えなくなるという伝説があって、それに取材したのがこの歌です。それでは作者の坂上是則は実際に阿智村まで来てこの歌を作っているのかというと、おそらく来てはいないのではないかと思われます。
同様に、例の姨捨の歌や久米路橋の歌も現地で作られていない可能性が高いのです。それはどうもルール違反なんじゃないかと、現代に生きる私たちは思うのですが、昔はそうではなかったようです。そのへんを解明するキーワードが「歌枕」といわれるものです。
「歌枕」とは、「歌を詠むときの典拠とすべき枕詞・名所など。」あるいは「古歌に詠み込まれた諸国の名所。」と「広辞苑」にはありますが、要するに歌に詠まれるような有名な場所ということでしょう。
当時の貴族社会にあってはそういう教養というのが蔓延していたようで、姨捨伝説にしろ箒木伝説にしろ、知っているのが当たり前、知らない人は無教養、歌など詠む資格がない人ということになったのでしょう。
そこに行ったことがあるのかないのかなんぞということはどうでもよくて、その名所のバックグランドについての豊富な知識をもとに歌を作るのがまことの教養人であったのでしょう。
後世の人々は、そんな都で作られた地方の歌を有り難がって歌碑なんかをつくっていたりしますが、あくまでもそれは昔都でこの場所はこんなに有名だったのですよということなのであって、あの著名人の誰々さんがこの地でこんな歌を作りましたということではないようです。
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23:52
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2008年03月18日
映画を旅する その2
●犬神家の一族
1976年 監督・市川昆
この映画が公開される少し前のことなのですが、第二次の横溝正史ブームというのがありました。といっても、第一次のブームというのはなかったのかも知れません。しかし「八墓村」にしろ「本陣殺人事件」にしろ発表されてから何十年もたっての再評価であったように思います。もともとが横溝正史という作家は、同時代の江戸川乱歩に比べると地味な存在でした。
ブームの火付け役となったのは、角川書店の若社長でした。出版と映画をミックスするようにして、横溝作品も次々と映画化されたのです。
この映画を見た当時は、信州でロケされたのだということなどまったく知りませんでした。それが、この本にも登場する益子さんという以前上田市に勤務されていた方から「あそこに出てくる弁護士事務所は私の家でロケしたんです」ということをお聞きしてはじめて知った次第です。益子さんという人は和服の似合う粋な人で、落語なんかもやられて上田では有名な方のようです。池波正太郎とも親交があり、「真田太平記」の取材には益子さんが案内したのだということです。
ロケが行われた北国街道沿いの家並みは30年後の今日でもよく残されています。柳町のように最近整備されたところもありますが、どうも残されたというよりは開発から取り残されたという印象があります。
那須市という信州の架空の市が舞台なのですが、湖があるということからここは諏訪か岡谷ではないかと、横溝正史の原作を読んだ時にはそう思いました、諏訪地方の財閥といえば製糸王と呼ばれたあの一族が思い浮かぶのですが、この小説とはまったく関係ありません。
市川昆が亡くなって、私たちがかつてよく見た巨匠と呼ばれた監督はほとんどいなくなってしまいました。こうやってロケ地を旅するというような本が出るほど、映画は私たちの印象に残っています。安直につくられているテレビドラマとは比べものになりません。それだけ一シーン一シーンが丁寧につくられているのでしょう。
1976年 監督・市川昆
この映画が公開される少し前のことなのですが、第二次の横溝正史ブームというのがありました。といっても、第一次のブームというのはなかったのかも知れません。しかし「八墓村」にしろ「本陣殺人事件」にしろ発表されてから何十年もたっての再評価であったように思います。もともとが横溝正史という作家は、同時代の江戸川乱歩に比べると地味な存在でした。
ブームの火付け役となったのは、角川書店の若社長でした。出版と映画をミックスするようにして、横溝作品も次々と映画化されたのです。
この映画を見た当時は、信州でロケされたのだということなどまったく知りませんでした。それが、この本にも登場する益子さんという以前上田市に勤務されていた方から「あそこに出てくる弁護士事務所は私の家でロケしたんです」ということをお聞きしてはじめて知った次第です。益子さんという人は和服の似合う粋な人で、落語なんかもやられて上田では有名な方のようです。池波正太郎とも親交があり、「真田太平記」の取材には益子さんが案内したのだということです。
ロケが行われた北国街道沿いの家並みは30年後の今日でもよく残されています。柳町のように最近整備されたところもありますが、どうも残されたというよりは開発から取り残されたという印象があります。
那須市という信州の架空の市が舞台なのですが、湖があるということからここは諏訪か岡谷ではないかと、横溝正史の原作を読んだ時にはそう思いました、諏訪地方の財閥といえば製糸王と呼ばれたあの一族が思い浮かぶのですが、この小説とはまったく関係ありません。
市川昆が亡くなって、私たちがかつてよく見た巨匠と呼ばれた監督はほとんどいなくなってしまいました。こうやってロケ地を旅するというような本が出るほど、映画は私たちの印象に残っています。安直につくられているテレビドラマとは比べものになりません。それだけ一シーン一シーンが丁寧につくられているのでしょう。
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10:04
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2008年03月17日
映画を旅する
田沼雄一著 小学館ライブラリー
1995年に「ビッグコミック」に連載されたものをまとめたものです。1970年以後に公開された映画24本のロケ地を旅したものです。
24本の内見た映画が6本、時代がもう映画を見なくなった年代にしてはまあまあというところでしょうか。それでも印象に残った映画がいくつかあります。
●幸福の黄色いハンカチ
1977年公開 監督山田洋次
ロケ地夕張は悲惨なものになってしまいました。1995年田沼氏が訪ねた場所はどうなっているのか、炭住にはまだ黄色いハンカチがはためいているのか、わかりません。あの映画は高倉健と倍賞千恵子が再会するあのシーンだけにあるような気がします。なんであんなに泣けるんだろうか。心と心が通い合うことへの感動でしょうか。私たち観客はあのシーンで、武田鉄也と桃井かおりになっていて、高倉健の心を思いやりながらハラハラしていたように思います。
一時シラケという言葉がはやっていて、若者たちの無気力、無感動があたりまえのようになっていました。そんな時代への山田監督のアンチテーゼだったように思います。それでもああいう状況はおとなのおとぎ話なのかなと思います。なかなかありえないからこそ、あこがれ感動するのでしょう。
1995年に「ビッグコミック」に連載されたものをまとめたものです。1970年以後に公開された映画24本のロケ地を旅したものです。
24本の内見た映画が6本、時代がもう映画を見なくなった年代にしてはまあまあというところでしょうか。それでも印象に残った映画がいくつかあります。
●幸福の黄色いハンカチ
1977年公開 監督山田洋次
ロケ地夕張は悲惨なものになってしまいました。1995年田沼氏が訪ねた場所はどうなっているのか、炭住にはまだ黄色いハンカチがはためいているのか、わかりません。あの映画は高倉健と倍賞千恵子が再会するあのシーンだけにあるような気がします。なんであんなに泣けるんだろうか。心と心が通い合うことへの感動でしょうか。私たち観客はあのシーンで、武田鉄也と桃井かおりになっていて、高倉健の心を思いやりながらハラハラしていたように思います。
一時シラケという言葉がはやっていて、若者たちの無気力、無感動があたりまえのようになっていました。そんな時代への山田監督のアンチテーゼだったように思います。それでもああいう状況はおとなのおとぎ話なのかなと思います。なかなかありえないからこそ、あこがれ感動するのでしょう。
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10:30
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2008年03月17日
「蛾」
本日の注目記事、「転校生 さようならあなた」のブログです。
http://tenkousei.naganoblog.jp/e89776.html
根が好奇心の塊のせいか、さっそくトライしてみました「ダイモン占い」。結果は「蛾」だそうです。しかし何で「蝶」てせなくて「蛾」なんでしょう。夜行性であかりがあれば寄ってくるなんぞは、私の性癖そのものですから文句もいえませんが。しかし、星座と氏名のローマ字の画数でその人間のことが決まるんでしょうかねえ。と思いながらもまんざらでもない気分で、ブログに書きたくなったのは「蛾」のキーワードが「慈愛と平和主義」だからであります。穏やかな私そのもの、まさに慈愛に満ちたお地蔵様のような私ですから、大当たりです。「蛾」でも我慢しなければいけません。
http://tenkousei.naganoblog.jp/e89776.html
根が好奇心の塊のせいか、さっそくトライしてみました「ダイモン占い」。結果は「蛾」だそうです。しかし何で「蝶」てせなくて「蛾」なんでしょう。夜行性であかりがあれば寄ってくるなんぞは、私の性癖そのものですから文句もいえませんが。しかし、星座と氏名のローマ字の画数でその人間のことが決まるんでしょうかねえ。と思いながらもまんざらでもない気分で、ブログに書きたくなったのは「蛾」のキーワードが「慈愛と平和主義」だからであります。穏やかな私そのもの、まさに慈愛に満ちたお地蔵様のような私ですから、大当たりです。「蛾」でも我慢しなければいけません。

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00:03
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