2009年03月27日

丹波島橋

■街角の郷土史 20
 昔、江戸や上方から善光寺に旅をする人たちは、長野の町に入る前に犀川を渡らなければなりませんでした。江戸時代、丹波島には渡し場があって旅人はここで犀川を渡っておりました。丹波島の渡しは、流れが急であったため、綱が渡されており、船頭二人が流れに竿をさしてあやつり、もう二人が綱をたぐって舟を渡していたのです。
 明治六年(一八七三)には丹波島舟橋会社によって、舟橋が設けられました。舟四十六艘を並べ、その上に板を渡して橋にしたものです。これは有料の橋で、人一人につき七厘五毛、馬一匹につき二銭ずつを徴集していました。舟橋なので、大水が出るたびに取り外され通行止めとなりました。舟が流されてしまうこともあって、舟橋会社の損害は大きかったようです。丹波島は、長野と屋代や篠ノ井を結ぶ交通の要衝で、渡し船の頃よりはずいぶんと便利になったとはいっても、文字通りの浮き橋では不安定で仕方がありません。
 明治二三年九月、地元丹波島宿の柳島仁十郎ら有志が丹波島架橋会社を設立し、資金を出し合って木造の丹波島橋を完成させました。この橋はいわば私製の橋であったので有料で、通行する人馬からは橋銭を徴収しました。当時の新聞には挿し絵入りで新しい木橋のことが紹介されています。それによるとこの橋は、日本国内でも屈指の長橋で、「巨人島の黒虹」と表現されています。
 まさに犀川の一景観となった丹波島橋でしたが、長野の出入り口にあるこの橋が、有料橋であるのは公益に反するという議論が起こり、明治三〇年には県営に移管され、橋銭を徴収するのをやめています。
 国道一〇号線という幹線道路に架かる丹波島橋は、木の橋では増える交通量に対応できなくなってきました。鉄橋になったのは昭和七年のことです。おりからの昭和恐慌で失業対策事業として多くの土木工事が行われましたが、丹波島橋の鉄橋化もその一つでした。ちなみに善光寺の裏手から往生寺に通じる展望道路もこの時の失業対策事業で開かれたものです。
 丹波島橋は、総工費七三万六千円、長さ五四一メートル、幅七・三メートルの堂々たる鉄橋として完成しました。
 この鉄橋は、長野の南の玄関口として長い間親しまれてきましたが、マイカーの時代を迎えて、朝夕に車がこの橋に集中するようになり、渋滞の名所となってしまいました。現在の鉄筋コンクリート製片側二車線の橋になったのは昭和六一年のことです。
丹波島橋



Posted by 南宜堂 at 13:57│Comments(0)

 
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