2009年03月19日
街角の郷土史 15
■城山公園
いま信濃美術館や東山魁夷館のある城山公園は、明治四一年(一九〇八)、一府十県連合共進会の会場となったのを契機に整備され、公園となったものです。この共進会の開催は、長野が近代的な都市に発展するための起爆剤の役目を果たしたといわれていますが実際はどうだったのでしょうか。
この時県は三万坪の土地を整地し、そこに演芸館や接待館などの恒久的な建物はじめ、いくつかの仮設小屋を造って共進会の会場としました。
明治四一年九月二〇日午前一〇時、一府十県連合共進会が五二日間の予定で開会しようとしていました。前日から降り続いていた土砂降りの雨が、午前八時を過ぎるとうそのようにやみ、秋の澄み切った青空が顔をのぞかせています。雨上がりのぬかるんだ道を、羽織袴やフロックコートに身を包んだ紳士たちが、足もとを気にしながら続々と城山公園に集まってきました。
府県連合共進会は、東京府、神奈川、新潟、埼玉、群馬、千葉、茨城、栃木、山梨、愛知、長野の一府十県が持ち回りで毎年開催しているもので、長野県では明治三九年に誘致を決め、二年余にわたって準備をすすめてきたものです。
そもそも共進会とは、博覧会の規模を小さくしたようなもので、穀物や蚕種、牛や豚といった農産物や、織物、農機具、織機などの工業製品を持ち寄って行う品評会だと考えていただければわかりやすいでしょう。参加を決めた各府県の関係者は、農林館、工芸館、蚕糸館、特許館などに、それぞれ自慢の産物を並べ、客を呼びました。
共進会の主催者である長野県の意気込みはたいへんなもので、数カ月も前から信濃毎日新聞は、毎日のように共進会関係の情報を流しました。しかし、記事の内容は演芸館で行われる余興の紹介であったり、会場の外に小屋がけする興業をおもしろおかしく書きたてるといった興味本位のもので、人々の関心もその辺に集中したようです。
一方で信濃毎日新聞の記事は、本来の目的はそれぞれの出品者の功績を顕彰し、産業の発達を促そうということであるので、観覧者としても心して会場に足を運び、大いに知識を深めるべきであると、報道機関としての良識をもって釘を刺すことも忘れませんでした。
最近の大規模なイベントには必ずイメージソングが作られますが、この伝統は明治時代からあったようで、府県連合共進会の時も「信濃八景みすず音頭」なる曲が作られ、会場内に建てられた演芸館で、丸山晩霞が描いた信濃の秋の背景画を前に、権堂の芸妓たちが揃いの着物姿で唄い踊りました。
晩霞の「信濃八景」の絵は信濃毎日新聞により絵はがきに仕立てられて、懸賞付きで発売されました。懸賞は、指定された日に長野停車場に降りる人数を当てるというもので、一人の違いもなく当たれば金五円という賞金が用意されていました。
見物人を当て込んで、会場の外には多くの飲食店や見せ物小屋が客を呼んでいました。まだ我が国に紹介されたばかりの珍しい活動写真の小屋があるかとおもうと、観戦鉄道という見せ物も人気を集めていました。これは観客が列車に乗って館内をまわる間に、旅順、奉天など日本軍が勇敢に戦った二一カ所の戦場を見て回るというもので、今なら東京ディズニーランドのアトラクションに採用されそうなものでしょう。
こうして府県連合共進会は、入場者数六六万五千人と目標の五〇万人を大きく上まわって一一月一〇日に閉会しました。大成功でした。しかし一方で、馬鹿騒ぎに終始しただけで、肝心の長野市の産業の発展には何の役にも立たなかったという批判も聞かれました。
いま信濃美術館や東山魁夷館のある城山公園は、明治四一年(一九〇八)、一府十県連合共進会の会場となったのを契機に整備され、公園となったものです。この共進会の開催は、長野が近代的な都市に発展するための起爆剤の役目を果たしたといわれていますが実際はどうだったのでしょうか。
この時県は三万坪の土地を整地し、そこに演芸館や接待館などの恒久的な建物はじめ、いくつかの仮設小屋を造って共進会の会場としました。
明治四一年九月二〇日午前一〇時、一府十県連合共進会が五二日間の予定で開会しようとしていました。前日から降り続いていた土砂降りの雨が、午前八時を過ぎるとうそのようにやみ、秋の澄み切った青空が顔をのぞかせています。雨上がりのぬかるんだ道を、羽織袴やフロックコートに身を包んだ紳士たちが、足もとを気にしながら続々と城山公園に集まってきました。
府県連合共進会は、東京府、神奈川、新潟、埼玉、群馬、千葉、茨城、栃木、山梨、愛知、長野の一府十県が持ち回りで毎年開催しているもので、長野県では明治三九年に誘致を決め、二年余にわたって準備をすすめてきたものです。
そもそも共進会とは、博覧会の規模を小さくしたようなもので、穀物や蚕種、牛や豚といった農産物や、織物、農機具、織機などの工業製品を持ち寄って行う品評会だと考えていただければわかりやすいでしょう。参加を決めた各府県の関係者は、農林館、工芸館、蚕糸館、特許館などに、それぞれ自慢の産物を並べ、客を呼びました。
共進会の主催者である長野県の意気込みはたいへんなもので、数カ月も前から信濃毎日新聞は、毎日のように共進会関係の情報を流しました。しかし、記事の内容は演芸館で行われる余興の紹介であったり、会場の外に小屋がけする興業をおもしろおかしく書きたてるといった興味本位のもので、人々の関心もその辺に集中したようです。
一方で信濃毎日新聞の記事は、本来の目的はそれぞれの出品者の功績を顕彰し、産業の発達を促そうということであるので、観覧者としても心して会場に足を運び、大いに知識を深めるべきであると、報道機関としての良識をもって釘を刺すことも忘れませんでした。
最近の大規模なイベントには必ずイメージソングが作られますが、この伝統は明治時代からあったようで、府県連合共進会の時も「信濃八景みすず音頭」なる曲が作られ、会場内に建てられた演芸館で、丸山晩霞が描いた信濃の秋の背景画を前に、権堂の芸妓たちが揃いの着物姿で唄い踊りました。
晩霞の「信濃八景」の絵は信濃毎日新聞により絵はがきに仕立てられて、懸賞付きで発売されました。懸賞は、指定された日に長野停車場に降りる人数を当てるというもので、一人の違いもなく当たれば金五円という賞金が用意されていました。
見物人を当て込んで、会場の外には多くの飲食店や見せ物小屋が客を呼んでいました。まだ我が国に紹介されたばかりの珍しい活動写真の小屋があるかとおもうと、観戦鉄道という見せ物も人気を集めていました。これは観客が列車に乗って館内をまわる間に、旅順、奉天など日本軍が勇敢に戦った二一カ所の戦場を見て回るというもので、今なら東京ディズニーランドのアトラクションに採用されそうなものでしょう。
こうして府県連合共進会は、入場者数六六万五千人と目標の五〇万人を大きく上まわって一一月一〇日に閉会しました。大成功でした。しかし一方で、馬鹿騒ぎに終始しただけで、肝心の長野市の産業の発展には何の役にも立たなかったという批判も聞かれました。

Posted by 南宜堂 at
18:53
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