2009年03月28日
妻科の家
■街角の郷土史 22
戦前の一時期、妻科に住んだ詩人田中冬二のことはあまり長野の人には知られていないようです。わたしはこの詩人の長野をうたった次の詩の一節が好きで、いろいろ調べるようになりました。
「長野は仏の町である。山の傾斜にあって坂の多い町である。辻々から山の見える町である。ものしずかな町である。そして燈火のうつくしい町である。/高原で空気の澄んでいるゆえであろうか、わけて冬の燈火の色はなんともいえない。/凍寒の気に冴え冴えしているが、またそのあかりの圏内だけ何か人情的のものを持っている。」(「美しき燈火の町」)
彼の作品集に「妻科の家」というタイトルのものがありますが、その妻科の家はどこにあったのでしょうか。なかなか特定できないままでいたのですが、最近になって妻科在住の文芸評論家東栄蔵先生からその場所をお聞きすることができました。
妻科神社の角を北に曲がり、一筋目を西に入った場所が「妻科の家」の跡でした。残念ながら現在は駐車場になってしまい、その家をしのぶことはできませんが、眼下には長野県庁を見下ろし、背後には旭山がそびえる高台にあって、冬二が朝夕眺めたであろう風景を想像することができました。もちろん当時はこれほど家も建て込んではいなかったでしょうし、県庁も木造二階建てルネサンス風のクラシックなものでした。
田中冬二が長野の町をうたった詩にはほかにこんなものもあります。
「山の傾斜地の林檎園では袋かけをしてゐた/ほととぎすがないた/麦の穂波がひかり 桑の葉はあかるくしろくかへつた/縁先近く柿の花がこぼれて もう薄暑を感じた」(「山国初夏」)
ゆったりと時が流れていく長野の初夏、それを楽しむ詩人の様子が伝わってきます。
田中冬二は、四季派の詩人であるとともに、安田銀行(現在のみずほ銀行)に勤める銀行員でした。彼は昭和一四年二月、安田銀行長野支店の副長として東京より赴任し、昭和一七年諏訪支店長となって転任するまでの足掛け四年間、長野の妻科に家族とともに住んでいます。みずほ銀行長野支店は、昭和二三年までは安田銀行といっていました。当時の安田銀行長野支店は、現在地より北の川中島バス大門町バス停の辺にありました。
冬二はまず単身で赴任して、社宅が空くまでの何日間かを近くの旅館五明館に泊まっています。
「午后五時の勤めより帰りて 三階の部屋より眺むるに/町を囲める雪の山々は蒼然として暮れんとすなり/町家の片屋根に残りの雪しろく 古びたる看板の上 はや電燈はともりたり/とほき山麓の赤き灯は何処ぞ」(「信濃の客舎にて」より)
また冬二は、着任した長野の町の第一印象を次のように記しています。
「汽車が長野駅に着くと、ホームには長野支店の人たちが出迎えに来ているのです。その時の温かい歓迎ぶりが何とも印象的でした。銀行は土蔵造りで、内部には太いケヤキの柱があって、今日では文化財でしょう。(中略)その時、しみじみ市内の景色を眺めました。わたしが長い間空想し、憧れていた風景と寸分たがわず、その感激は今でも忘れられません。」
やがて彼は、妻科に家を借り、家族を呼び寄せ長野での暮らしをはじめるのです。
「そうしたころの夕暮れのひとときを、わたしはしばしば夕食までの間を、懐手のままで家の近くを彷徨うた。山の陰にはやくも翳った長野商業のグランドを右に、裾花川の吊り橋の方へゆく。やがて吊り橋の袂に来ると、橋の向こう切りたてたような山の真下に、橙色の瀟洒な発電所が煌々と点している。わたしはゆらゆらとゆれる吊り橋の上、太い針金につかまりながら、脚下の凄まじい奔流をしばし見入ったり、あるいは川べりの石に腰をかけて、上流の柵や鬼無里の山村に、浪漫的の思いをひとり走らせたりした。」
そんな時、冬二の幼い子供たちが彼を迎えに来ます。冬二は子供たちの手を引いて家路を急ぐのです。童謡の旋律が聞こえてくるような情景ではないでしょうか。
妻科の家から大門町の安田銀行まで、冬二は大好きな長野の町を歩いて通ったのでしょう。県町、長門町、若松町、このあたりはまだむかしの風情が残る町です。足の向くままに小路に迷い込むと、小川が流れていたり、お地蔵さんのほこらがあったり、屋根の間から旭山が見えたりします。
「長野の市中でも戸隠街道に通ずる町にはまだ昔の構えが残っている。町並みも古く狭く、粗末な飯屋の前には戸隠から炭や戸隠大根などつけて来た馬が繋がれている。」
この町はおそらく桜枝町のことでしょう。荒木、七瀬、桜枝町、長野の町のはずれには、そんな近郷からやって来た人相手の町がつい最近までありました。善光寺門前の大門町には旅館や大店が並んでいますが、その一本西の西町には古着屋、東町には問屋、そして桜枝町には戸隠や鬼無里から出てくる人相手の店が並ぶ。町というのは、誰かの手によって恣意的につくられるのではなく、人々の日々の営みの中で自然発生的に発展するものだということがよくわかります。
「夜 善光寺の町には 蕨夏みかんさくらんぼ/それから芍薬や菖蒲の剪花を売る露店が出た/槲の葉も売つていた」(「山国初夏」)
夏の夜の風物詩である夜店、八月一二日のお花市の夜をのぞけば、長野では見られなくなってしまった光景ですが、戦前まではさかんに開かれていたようです。
七月下旬から八月の旧盆の頃にかけて、西町、西之門町、大門町に夜店が出ていました。当時の人々は植木屋、水菓子屋、古道具屋などを冷やかしながらそぞろ歩きを楽しんだようです。
板戸を閉めた店があります。まだ、こうこうと明かりを照らし商いをしている店もあります。そんな町の一角に並ぶ屋台は、カンテラ、ランプ、裸電灯と思い思いの灯をともし、季節の果物や切り花を並べています。なかには、骨董を売る店なども出ていて、カンテラの光に照らされて怪し気な光を放っています。この胡散臭さがまた夜店の魅力だったのです。
冬二の詩はどうしてこうも美しく長野の町を歌い上げるのでしょうか。彼は感受性豊かな詩人であり、異邦から来た旅人でした。旅人にしか見えない情景というのがあります。生まれたのは父親の赴任地の福島県でしたが、育ったのは東京の下町です。長野に住む人間には何の変哲もない日常的な風景であっても、都会育ちの冬二にとっては懐かしく新鮮な情景であったのでしょう。
冬二の詩の情景とは裏腹に、彼が長野に住んだ時期は、日本にとって戦争前夜の最も不幸な時代でした。昭和一三年三月、長野市城山で満蒙開拓青少年義勇軍先遣隊の壮行会が行われています。翌年の九月には新聞の統合がはじまり、一五年の一二月には大政翼賛会が結成されています。カーキ色に染まっていく長野を、彼は銀行の副長席からどんな風に眺めていたのでしょうか。
戦前の一時期、妻科に住んだ詩人田中冬二のことはあまり長野の人には知られていないようです。わたしはこの詩人の長野をうたった次の詩の一節が好きで、いろいろ調べるようになりました。
「長野は仏の町である。山の傾斜にあって坂の多い町である。辻々から山の見える町である。ものしずかな町である。そして燈火のうつくしい町である。/高原で空気の澄んでいるゆえであろうか、わけて冬の燈火の色はなんともいえない。/凍寒の気に冴え冴えしているが、またそのあかりの圏内だけ何か人情的のものを持っている。」(「美しき燈火の町」)
彼の作品集に「妻科の家」というタイトルのものがありますが、その妻科の家はどこにあったのでしょうか。なかなか特定できないままでいたのですが、最近になって妻科在住の文芸評論家東栄蔵先生からその場所をお聞きすることができました。
妻科神社の角を北に曲がり、一筋目を西に入った場所が「妻科の家」の跡でした。残念ながら現在は駐車場になってしまい、その家をしのぶことはできませんが、眼下には長野県庁を見下ろし、背後には旭山がそびえる高台にあって、冬二が朝夕眺めたであろう風景を想像することができました。もちろん当時はこれほど家も建て込んではいなかったでしょうし、県庁も木造二階建てルネサンス風のクラシックなものでした。
田中冬二が長野の町をうたった詩にはほかにこんなものもあります。
「山の傾斜地の林檎園では袋かけをしてゐた/ほととぎすがないた/麦の穂波がひかり 桑の葉はあかるくしろくかへつた/縁先近く柿の花がこぼれて もう薄暑を感じた」(「山国初夏」)
ゆったりと時が流れていく長野の初夏、それを楽しむ詩人の様子が伝わってきます。
田中冬二は、四季派の詩人であるとともに、安田銀行(現在のみずほ銀行)に勤める銀行員でした。彼は昭和一四年二月、安田銀行長野支店の副長として東京より赴任し、昭和一七年諏訪支店長となって転任するまでの足掛け四年間、長野の妻科に家族とともに住んでいます。みずほ銀行長野支店は、昭和二三年までは安田銀行といっていました。当時の安田銀行長野支店は、現在地より北の川中島バス大門町バス停の辺にありました。
冬二はまず単身で赴任して、社宅が空くまでの何日間かを近くの旅館五明館に泊まっています。
「午后五時の勤めより帰りて 三階の部屋より眺むるに/町を囲める雪の山々は蒼然として暮れんとすなり/町家の片屋根に残りの雪しろく 古びたる看板の上 はや電燈はともりたり/とほき山麓の赤き灯は何処ぞ」(「信濃の客舎にて」より)
また冬二は、着任した長野の町の第一印象を次のように記しています。
「汽車が長野駅に着くと、ホームには長野支店の人たちが出迎えに来ているのです。その時の温かい歓迎ぶりが何とも印象的でした。銀行は土蔵造りで、内部には太いケヤキの柱があって、今日では文化財でしょう。(中略)その時、しみじみ市内の景色を眺めました。わたしが長い間空想し、憧れていた風景と寸分たがわず、その感激は今でも忘れられません。」
やがて彼は、妻科に家を借り、家族を呼び寄せ長野での暮らしをはじめるのです。
「そうしたころの夕暮れのひとときを、わたしはしばしば夕食までの間を、懐手のままで家の近くを彷徨うた。山の陰にはやくも翳った長野商業のグランドを右に、裾花川の吊り橋の方へゆく。やがて吊り橋の袂に来ると、橋の向こう切りたてたような山の真下に、橙色の瀟洒な発電所が煌々と点している。わたしはゆらゆらとゆれる吊り橋の上、太い針金につかまりながら、脚下の凄まじい奔流をしばし見入ったり、あるいは川べりの石に腰をかけて、上流の柵や鬼無里の山村に、浪漫的の思いをひとり走らせたりした。」
そんな時、冬二の幼い子供たちが彼を迎えに来ます。冬二は子供たちの手を引いて家路を急ぐのです。童謡の旋律が聞こえてくるような情景ではないでしょうか。
妻科の家から大門町の安田銀行まで、冬二は大好きな長野の町を歩いて通ったのでしょう。県町、長門町、若松町、このあたりはまだむかしの風情が残る町です。足の向くままに小路に迷い込むと、小川が流れていたり、お地蔵さんのほこらがあったり、屋根の間から旭山が見えたりします。
「長野の市中でも戸隠街道に通ずる町にはまだ昔の構えが残っている。町並みも古く狭く、粗末な飯屋の前には戸隠から炭や戸隠大根などつけて来た馬が繋がれている。」
この町はおそらく桜枝町のことでしょう。荒木、七瀬、桜枝町、長野の町のはずれには、そんな近郷からやって来た人相手の町がつい最近までありました。善光寺門前の大門町には旅館や大店が並んでいますが、その一本西の西町には古着屋、東町には問屋、そして桜枝町には戸隠や鬼無里から出てくる人相手の店が並ぶ。町というのは、誰かの手によって恣意的につくられるのではなく、人々の日々の営みの中で自然発生的に発展するものだということがよくわかります。
「夜 善光寺の町には 蕨夏みかんさくらんぼ/それから芍薬や菖蒲の剪花を売る露店が出た/槲の葉も売つていた」(「山国初夏」)
夏の夜の風物詩である夜店、八月一二日のお花市の夜をのぞけば、長野では見られなくなってしまった光景ですが、戦前まではさかんに開かれていたようです。
七月下旬から八月の旧盆の頃にかけて、西町、西之門町、大門町に夜店が出ていました。当時の人々は植木屋、水菓子屋、古道具屋などを冷やかしながらそぞろ歩きを楽しんだようです。
板戸を閉めた店があります。まだ、こうこうと明かりを照らし商いをしている店もあります。そんな町の一角に並ぶ屋台は、カンテラ、ランプ、裸電灯と思い思いの灯をともし、季節の果物や切り花を並べています。なかには、骨董を売る店なども出ていて、カンテラの光に照らされて怪し気な光を放っています。この胡散臭さがまた夜店の魅力だったのです。
冬二の詩はどうしてこうも美しく長野の町を歌い上げるのでしょうか。彼は感受性豊かな詩人であり、異邦から来た旅人でした。旅人にしか見えない情景というのがあります。生まれたのは父親の赴任地の福島県でしたが、育ったのは東京の下町です。長野に住む人間には何の変哲もない日常的な風景であっても、都会育ちの冬二にとっては懐かしく新鮮な情景であったのでしょう。
冬二の詩の情景とは裏腹に、彼が長野に住んだ時期は、日本にとって戦争前夜の最も不幸な時代でした。昭和一三年三月、長野市城山で満蒙開拓青少年義勇軍先遣隊の壮行会が行われています。翌年の九月には新聞の統合がはじまり、一五年の一二月には大政翼賛会が結成されています。カーキ色に染まっていく長野を、彼は銀行の副長席からどんな風に眺めていたのでしょうか。

Posted by 南宜堂 at 08:46│Comments(2)
この記事へのコメント
妻科の家の紹介ありがとうございました。
Posted by 東京文献センター at 2012年08月06日 18:26
東京文献センター様
コメントありがとうございます。田中冬二はもっと長野で評価されるべき詩人だと思っています。冬二の著作の復刻は難しいとは思いますが、ぜひお願いできれば嬉しいですね。
コメントありがとうございます。田中冬二はもっと長野で評価されるべき詩人だと思っています。冬二の著作の復刻は難しいとは思いますが、ぜひお願いできれば嬉しいですね。
Posted by 南宜堂 at 2012年08月07日 11:40