2009年09月25日

ルール

 私はかつて京都に6年住んだことがあった。その京都ではあまり感じたことがなかったのだが、時たま大阪に行った時など驚かされたものである。歩行者信号というのがあるが、大阪ではほとんどそれが守られることがないのだ。赤であっても、車が来なければ渡ってもいいという、暗黙のルールがあるかのようだった。駅のホームに並ぶ人たちも、電車が入ってくればそんな列は無視して我先に乗り込む。こういう風景に不快感を感じたのは、私も東の人間であったからなのかもしれない。
 この人たちの中には、社会のルールとは別に、自分のルールというものがあって、自分が良しとしたことなら社会のルールは無視できるという思いがあるのかもしれないと、最近はそんな風にも思っている。
 身分制度というのは外のルールであり、それが不合理であれば打ち破ればいいじゃないかと、西南諸藩の下級武士たちは思ったのではなかろうか。それに対して、東北の諸藩では、制度というのはそれが道理に合わなくとも守らねばならないものとしてあったのではないか。
 私が京都を離れて、信州に帰ろうと思った理由というのはいろいろあったのだが、関西に住むことの息苦しさといったものもあったようだ。秩序に守られてあることの安らぎが懐かしかったのかもしれない。
 もちろん、司馬遼太郎も述べているように、戊辰戦争の大きな要因は薩摩や長州の武力倒幕の意志である。しかしその意志をもっと深く掘り下げていったならば、東と西の気質というか風土の違いにまで言及できるのではないか。
 おそらく関西出身の司馬は、戦後百数十年が過ぎても消えない会津の戊辰戦争への思いというものが、理屈ではわかっても感情として理解できなかったのではないだろうか。東と西の対立というのは、彼が自分を納得させるためにとった視点であるような気がする。


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Posted by 南宜堂 at 10:03│Comments(0)幕末・維新
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