2011年02月12日
次郎長傳 2
復元された末廣屋の受付の女性が言っていたのだが、清水次郎長の侠客の時代と気質になってからの年数はほぼ同じなのだという。明治26年、次郎長は74歳で世を去っている。23歳の時家業を姉夫婦に譲り、無宿となって旅に出ているから、明治維新を境に確かに半々である。映画や浪曲で描かれるのは海道一親分次郎長の活躍だが、気質になってからの次郎長の晩年というのはあまり知られていない。
浪曲や講談のもととなった「東海遊侠伝」が出版されたのが明治17年のことである。作者は天田五郎、後の愚庵である。天田愚庵はもとの名を甘田久五郎といった。磐城平藩士甘田平太夫の五男として安政元年に生まれている。
天田五郎と次郎長の出会いは、五郎が次郎長の食客となったことによる。山岡鉄舟の紹介によるものであった。明治11年11月のことである。五郎はこのとき25歳、ちなみに次郎長は59歳、鉄舟は53歳であった。
そのときの様子を「清水次郎長と幕末維新」の著者高橋敏氏は次のように描写している。
鉄舟は常になく不興の様子で「言語道断、御身何とて我にも告ず東京は抜出たるぞ」と全くどうしようもない「尻軽き尻焼猿かな」と叱り飛ばした。示し合わせたかのようにそこに現れたのが次郎長であった。鉄舟は次郎長に向かって「親方よ、今ま汝に預くべき物こそあれ、此の眉毛太き痴者をば暫らく手元に預かり呉れよ、尻焼猿の事なれば、山に置くもよかるべし」と言えば、次郎長もさる者、「畏まって候」
と応じ、きっと預かります上は御心配御無用、「余りに狂ひ候はば其時胴切に斬り放し候」と応じた。
何か芝居がかった話だが、実際に前もって鉄舟と次郎長の間では話がついていたのかもしれない。尻焼猿とは江戸言葉で「物事に飽きやすく、なかなかひとつのことをし遂げることのできない人」の謂いである。鉄舟から見れば、まさに五郎は尻焼猿であったことだろう。
私が天田愚庵の名を知ったのは、ずいぶん前のことである。戊辰戦争で生き別れとなった両親と妹を捜すため、写真師となって日本中を放浪して歩き、ついには清水次郎長に見込まれて養子となり、次郎長の一代記である「東海遊侠伝」を書いた。その数奇な生涯に強い興味をおぼえたのだ。
愚庵の生きた時代は、幕末から明治という明治維新の動乱期であった。いわば幕末の内乱から明治の近代国家へと日本が大きく変わろうとする時代である。
愚庵はこの激流に深く関わって生きた人物というわけではない。むしろ、その時代に背を向け、ひたむきに自分の内面を見つめて生きたという感がある。しかしその生涯は実に波瀾万丈、興味は尽きないのである。 そんな愚庵がどんな動機から侠客次郎長の半生を描こうとしたのだろうか。

山岡鉄舟揮毫の壮士の墓
浪曲や講談のもととなった「東海遊侠伝」が出版されたのが明治17年のことである。作者は天田五郎、後の愚庵である。天田愚庵はもとの名を甘田久五郎といった。磐城平藩士甘田平太夫の五男として安政元年に生まれている。
天田五郎と次郎長の出会いは、五郎が次郎長の食客となったことによる。山岡鉄舟の紹介によるものであった。明治11年11月のことである。五郎はこのとき25歳、ちなみに次郎長は59歳、鉄舟は53歳であった。
そのときの様子を「清水次郎長と幕末維新」の著者高橋敏氏は次のように描写している。
鉄舟は常になく不興の様子で「言語道断、御身何とて我にも告ず東京は抜出たるぞ」と全くどうしようもない「尻軽き尻焼猿かな」と叱り飛ばした。示し合わせたかのようにそこに現れたのが次郎長であった。鉄舟は次郎長に向かって「親方よ、今ま汝に預くべき物こそあれ、此の眉毛太き痴者をば暫らく手元に預かり呉れよ、尻焼猿の事なれば、山に置くもよかるべし」と言えば、次郎長もさる者、「畏まって候」
と応じ、きっと預かります上は御心配御無用、「余りに狂ひ候はば其時胴切に斬り放し候」と応じた。
何か芝居がかった話だが、実際に前もって鉄舟と次郎長の間では話がついていたのかもしれない。尻焼猿とは江戸言葉で「物事に飽きやすく、なかなかひとつのことをし遂げることのできない人」の謂いである。鉄舟から見れば、まさに五郎は尻焼猿であったことだろう。
私が天田愚庵の名を知ったのは、ずいぶん前のことである。戊辰戦争で生き別れとなった両親と妹を捜すため、写真師となって日本中を放浪して歩き、ついには清水次郎長に見込まれて養子となり、次郎長の一代記である「東海遊侠伝」を書いた。その数奇な生涯に強い興味をおぼえたのだ。
愚庵の生きた時代は、幕末から明治という明治維新の動乱期であった。いわば幕末の内乱から明治の近代国家へと日本が大きく変わろうとする時代である。
愚庵はこの激流に深く関わって生きた人物というわけではない。むしろ、その時代に背を向け、ひたむきに自分の内面を見つめて生きたという感がある。しかしその生涯は実に波瀾万丈、興味は尽きないのである。 そんな愚庵がどんな動機から侠客次郎長の半生を描こうとしたのだろうか。
山岡鉄舟揮毫の壮士の墓
Posted by 南宜堂 at 23:33│Comments(0)
│幕末・維新
※このブログではブログの持ち主が承認した後、コメントが反映される設定です。