2011年02月28日
男磨いた勇み肌
「東海遊侠伝」に語られる清水次郎長の義挙については、冷めた見方もある。すなわち、清水港に浮かんだ咸臨丸乗組員たちの死体の収容を次郎長にさせたのは山岡鉄舟であるというのである。官軍に対する手前、自らが死体の収容に動くわけにいかず、かねてより見知っていた次郎長にそれを依頼したというのである。そしてそのことは、あくまでも次郎長自身が自発的に行ったこととして、口裏を合わせたのだというのだ。
この真相は今となってはわからない。だが、このエピソードを含め、天田愚庵が次郎長のことを特別に義侠心に富んだ侠客として描いたのには、いくつかの理由があったようだ。
「東海遊侠伝」が出版されたのは、明治17年の4月のことだが、この年の2月次郎長は博徒の一斉刈り込みにより検挙されている。愚庵は次郎長の減刑のために奔走した。
そんな中での出版である。そこには、次郎長の一代記を世に問い、世間の同情を集め、何とかその罪を軽くしたいとの意図があったのではないか。
「東海遊侠伝」の原稿は、すでに明治12年には完成していたというが、いよいよ出版という時にいたって、次郎長の美談をより強調したということは十分に考えられることだ。
さらに、愚庵はこの時に次郎長との養子縁組の解消という、もうひとつの難題を抱えていた。
明治14年、愚庵は見込まれて次郎長の養子となった。しかし、次郎長が検挙された頃、鉄舟の斡旋で有栖川宮家への奉職の話が持ち上がっていた。それが成功するためには博徒山本長五郎の子ではまずいということで、穏便に養子縁組を解消する方向で話がはじまっていた。形の上だけとはいえ、次郎長から離れるということに愚庵は強く罪の思いをいだいていた。だから、「東海遊侠伝」は養父次郎長への贖罪の書でもあった。勇み肌
天田愚庵の「東海遊侠伝」は、その後の次郎長ものの原形となった。小説、芝居、映画、浪曲に講談、そして歌謡曲まで、次郎長一家の活躍を描いた物語はさまざまなメディアによって大衆の間に浸透していった。次郎長だけでなく、その子分たち大政、小政、石松といったものたちも人気者となった。
それらの種本ともいうべき「東海遊侠伝」であるが、これは史書ではない。小説といってもいいようなものである。次郎長の語ったことを記録したという体裁にはなっているが、語る次郎長の記憶違いもあろうし、筆記した愚案の脚色もそこにはある。ここでは悪役となっている黒駒勝蔵についても、勤王家であったという研究もある。

この真相は今となってはわからない。だが、このエピソードを含め、天田愚庵が次郎長のことを特別に義侠心に富んだ侠客として描いたのには、いくつかの理由があったようだ。
「東海遊侠伝」が出版されたのは、明治17年の4月のことだが、この年の2月次郎長は博徒の一斉刈り込みにより検挙されている。愚庵は次郎長の減刑のために奔走した。
そんな中での出版である。そこには、次郎長の一代記を世に問い、世間の同情を集め、何とかその罪を軽くしたいとの意図があったのではないか。
「東海遊侠伝」の原稿は、すでに明治12年には完成していたというが、いよいよ出版という時にいたって、次郎長の美談をより強調したということは十分に考えられることだ。
さらに、愚庵はこの時に次郎長との養子縁組の解消という、もうひとつの難題を抱えていた。
明治14年、愚庵は見込まれて次郎長の養子となった。しかし、次郎長が検挙された頃、鉄舟の斡旋で有栖川宮家への奉職の話が持ち上がっていた。それが成功するためには博徒山本長五郎の子ではまずいということで、穏便に養子縁組を解消する方向で話がはじまっていた。形の上だけとはいえ、次郎長から離れるということに愚庵は強く罪の思いをいだいていた。だから、「東海遊侠伝」は養父次郎長への贖罪の書でもあった。勇み肌
天田愚庵の「東海遊侠伝」は、その後の次郎長ものの原形となった。小説、芝居、映画、浪曲に講談、そして歌謡曲まで、次郎長一家の活躍を描いた物語はさまざまなメディアによって大衆の間に浸透していった。次郎長だけでなく、その子分たち大政、小政、石松といったものたちも人気者となった。
それらの種本ともいうべき「東海遊侠伝」であるが、これは史書ではない。小説といってもいいようなものである。次郎長の語ったことを記録したという体裁にはなっているが、語る次郎長の記憶違いもあろうし、筆記した愚案の脚色もそこにはある。ここでは悪役となっている黒駒勝蔵についても、勤王家であったという研究もある。
Posted by 南宜堂 at 14:09│Comments(0)
│幕末・維新
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