2009年09月24日
東と西
司馬遼太郎について熱く語る友人の影響もあって、彼の作品を読んでいる。
『街道をゆく』の一節に「戊辰戦争は、日本史がしばしばくりかえしてきた”東西戦争”の最後の戦いといっていい。」とある。彼によれば、平氏は西方、鎌倉幕府は東方、後醍醐天皇は西方、室町幕府は東方、織豊政権は西方、江戸幕府は東方ということである。そして、戊辰戦争は「西方(薩摩・長州)が東方を圧倒した」のであると。
「なるほど」と思う。「そんなことが」とも思う。司馬遼太郎は、歴史小説の作法として俯瞰するように、ビルの上から下の道路を見下ろすように人物や事件を描くことをしていると自ら述べている。「この俯瞰法で某を見るばあい、筆者は某そのひと以上に某の運命とその環境、そしてその最期、さらには某の存在と行動がおよぼしたあとあとへの影響というものを知ることができる」(「歴史小説を書くこと」)というのである。日本の歴史全体を見下ろすということは、相当に高いところから見る必要があるが、そうして見たばあい、東と西の争いの繰り返しに見えるのであろう。
戊辰戦争を東西の対立という視点で捉えるというのは、新鮮ではあるのだが戸惑いも覚える。それでは、私の住む信州は東なのか西なのか。地理的には長く東といわれてきた。しかし戊辰戦争では東に組みしたということはない。もともと西ということでもなく、勢いに押されて西に動いたのである。このことは信州だけの話ではない。薩摩・長州など確信犯とも言うべきところをのぞけば、勢いに押されて西に動いたのである。
よく言われているのはイデオロギーの対立、勤王対佐幕の対立である。西南諸藩は勤王で、東北諸藩は佐幕とするとわかりやすいが、それほど単純なものでもない。体制の側にいるものは、変革ということを好まない。幕藩体制により、藩内の秩序が維持されているとすれば、西南諸藩といえどもそれをひっくり返すような運動が藩ぐるみで起こるはずはないのだ。
藩内において、上と下の武士の間で身分的な対立があって、下級武士たちがイデオロギーとして勤王を選んだということ、そして彼らが藩の実権を握るようになったということであれば、それは理解しやすい。
東北の諸藩ではそういった武士階級内部での上下の対立というものがおこらなかった。それだけ藩の体制が強固であったといえる。身分制度というものを変えることのできない固定したものであると考えるか否か、その根底には東と西の気質の違いというようなものがあるのではないか、それが私が司馬遼太郎のいう東西の対立という構図から学んだことである。
『街道をゆく』の一節に「戊辰戦争は、日本史がしばしばくりかえしてきた”東西戦争”の最後の戦いといっていい。」とある。彼によれば、平氏は西方、鎌倉幕府は東方、後醍醐天皇は西方、室町幕府は東方、織豊政権は西方、江戸幕府は東方ということである。そして、戊辰戦争は「西方(薩摩・長州)が東方を圧倒した」のであると。
「なるほど」と思う。「そんなことが」とも思う。司馬遼太郎は、歴史小説の作法として俯瞰するように、ビルの上から下の道路を見下ろすように人物や事件を描くことをしていると自ら述べている。「この俯瞰法で某を見るばあい、筆者は某そのひと以上に某の運命とその環境、そしてその最期、さらには某の存在と行動がおよぼしたあとあとへの影響というものを知ることができる」(「歴史小説を書くこと」)というのである。日本の歴史全体を見下ろすということは、相当に高いところから見る必要があるが、そうして見たばあい、東と西の争いの繰り返しに見えるのであろう。
戊辰戦争を東西の対立という視点で捉えるというのは、新鮮ではあるのだが戸惑いも覚える。それでは、私の住む信州は東なのか西なのか。地理的には長く東といわれてきた。しかし戊辰戦争では東に組みしたということはない。もともと西ということでもなく、勢いに押されて西に動いたのである。このことは信州だけの話ではない。薩摩・長州など確信犯とも言うべきところをのぞけば、勢いに押されて西に動いたのである。
よく言われているのはイデオロギーの対立、勤王対佐幕の対立である。西南諸藩は勤王で、東北諸藩は佐幕とするとわかりやすいが、それほど単純なものでもない。体制の側にいるものは、変革ということを好まない。幕藩体制により、藩内の秩序が維持されているとすれば、西南諸藩といえどもそれをひっくり返すような運動が藩ぐるみで起こるはずはないのだ。
藩内において、上と下の武士の間で身分的な対立があって、下級武士たちがイデオロギーとして勤王を選んだということ、そして彼らが藩の実権を握るようになったということであれば、それは理解しやすい。
東北の諸藩ではそういった武士階級内部での上下の対立というものがおこらなかった。それだけ藩の体制が強固であったといえる。身分制度というものを変えることのできない固定したものであると考えるか否か、その根底には東と西の気質の違いというようなものがあるのではないか、それが私が司馬遼太郎のいう東西の対立という構図から学んだことである。
Posted by 南宜堂 at 23:09│Comments(0)
│幕末・維新
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