2008年11月22日
冬の花火
19日は長野市岩石町にある西宮神社の宵えびすでした。そして23日には犀川の河川敷でえびす講の花火大会が行われます。
毎年この頃になると善光寺平には初雪が舞い、人々は冬ごもりの準備に入ったものでした。しかし、昨今は野沢菜や大根を漬ける家は少なくなり、冬の準備といったらタイヤの履き替えくらいしか思い浮かばなくなってきました。
19日の夜の西宮神社周辺の賑わいは、今でも昔と変わりないようですが、中央通りの商店の大売り出しはすっかり影をひそめてしまいました。11月ともなると周辺の農家は稲の収穫も終わり、冬のものを買う客が大勢長野の町に訪れてきました。私の子供の頃はすでにそんな賑わいはピークを過ぎていたようですが、それでも中央通り沿いの商店は舗道に露店を設け、東町の商店も遅くまで開いておりました。
花火大会の方は昔は確か20日の夜に行われていたのではないかと思います。今ではもうえびす講とは独立したような格好で、長野の冬の風物詩となっております。
この花火大会のルーツをたずねれば、明治32年(1899)「長野市大煙火会」なるものが結成され、そこが中心となって行われるようになりました。打ち上げられた場所は、鶴賀遊廓に近い高土手、現在の柳町中学の近くでした。以前に紹介した赤地蔵ののあたりです。
その後大正5年からは、長野商業会議所の一組織である長野商工懇話会の主催するところとなったのです。大正6年11月22日付の「信濃毎日新聞」に、二尺玉の打ち上げを見るために集まった大勢の人でにぎわう長野の町のようすがに載っております。
「(前略)午頃からは善光寺にお参りして順次城山に上って煙火を見た。煙火を見るには城山が最も好い場所でおでん屋や蜜柑林檎屋などが露店を張って何れも大繁盛で人々は日当たり好い場や芝の上に真黒に集まって何か食ひ乍ら見物して居た。田町辺から遊郭田圃へ掛けては三時の二尺玉を見んとて押掛ける群衆で一方ならぬ混雑を呈した。(後略)」
この頃の花火大会は昼の部、夜の部とあったようで、ここで記事になっているのは昼の花火を見る人々です。夜は夜で遊廓に繰り出す客と、花火見物の人で大にぎわいであったようです。同じ「信濃毎日新聞」の記事に、二尺玉の中に二百羽の紙の烏が込められていたことが記されています。紙の烏はゆったりと空にただよい、それを一生懸命に子どもたちが追いかけたといいます。これは袋物といって、雁皮紙で作られた風船で、戦前の花火大会にはよく使われたものでした。戦後になって風船を追った子どもが事故にでもあってはいけないという理由で禁止になったものです。
当時はまだ色鮮やかな打ち上げ花火の技術が未熟であったことが昼の花火を盛んにしていたようです。それと打ち上げの時の体を震わす大音響も昼の花火の魅力でした。今はカラーテレビの普及によるせいか、花火を視覚で楽しもうという人がほとんどですが、昔の人は花火の迫力を五感で感じ取ろうとしたようです。
毎年この頃になると善光寺平には初雪が舞い、人々は冬ごもりの準備に入ったものでした。しかし、昨今は野沢菜や大根を漬ける家は少なくなり、冬の準備といったらタイヤの履き替えくらいしか思い浮かばなくなってきました。
19日の夜の西宮神社周辺の賑わいは、今でも昔と変わりないようですが、中央通りの商店の大売り出しはすっかり影をひそめてしまいました。11月ともなると周辺の農家は稲の収穫も終わり、冬のものを買う客が大勢長野の町に訪れてきました。私の子供の頃はすでにそんな賑わいはピークを過ぎていたようですが、それでも中央通り沿いの商店は舗道に露店を設け、東町の商店も遅くまで開いておりました。
花火大会の方は昔は確か20日の夜に行われていたのではないかと思います。今ではもうえびす講とは独立したような格好で、長野の冬の風物詩となっております。
この花火大会のルーツをたずねれば、明治32年(1899)「長野市大煙火会」なるものが結成され、そこが中心となって行われるようになりました。打ち上げられた場所は、鶴賀遊廓に近い高土手、現在の柳町中学の近くでした。以前に紹介した赤地蔵ののあたりです。
その後大正5年からは、長野商業会議所の一組織である長野商工懇話会の主催するところとなったのです。大正6年11月22日付の「信濃毎日新聞」に、二尺玉の打ち上げを見るために集まった大勢の人でにぎわう長野の町のようすがに載っております。
「(前略)午頃からは善光寺にお参りして順次城山に上って煙火を見た。煙火を見るには城山が最も好い場所でおでん屋や蜜柑林檎屋などが露店を張って何れも大繁盛で人々は日当たり好い場や芝の上に真黒に集まって何か食ひ乍ら見物して居た。田町辺から遊郭田圃へ掛けては三時の二尺玉を見んとて押掛ける群衆で一方ならぬ混雑を呈した。(後略)」
この頃の花火大会は昼の部、夜の部とあったようで、ここで記事になっているのは昼の花火を見る人々です。夜は夜で遊廓に繰り出す客と、花火見物の人で大にぎわいであったようです。同じ「信濃毎日新聞」の記事に、二尺玉の中に二百羽の紙の烏が込められていたことが記されています。紙の烏はゆったりと空にただよい、それを一生懸命に子どもたちが追いかけたといいます。これは袋物といって、雁皮紙で作られた風船で、戦前の花火大会にはよく使われたものでした。戦後になって風船を追った子どもが事故にでもあってはいけないという理由で禁止になったものです。
当時はまだ色鮮やかな打ち上げ花火の技術が未熟であったことが昼の花火を盛んにしていたようです。それと打ち上げの時の体を震わす大音響も昼の花火の魅力でした。今はカラーテレビの普及によるせいか、花火を視覚で楽しもうという人がほとんどですが、昔の人は花火の迫力を五感で感じ取ろうとしたようです。
Posted by 南宜堂 at 20:50│Comments(0)