2008年07月02日

相楽総三と南信濃

 大正元年、相楽総三の孫にあたる木村亀太郎が初めて下諏訪を訪れたとき、ここでは相楽総三と赤報隊のことがいまだに語り伝えられ、しかも多くの人が総三に悪意を持っていないことに驚き、感激しました。決して悪業をはたらいた偽官軍とは思われていなかったのです。
 また、島崎藤村の長編「夜明け前」の中で、青山半蔵はこのようにつぶやいています。
「でも、相良惣三(小説では相楽総三のことをこのように表記している)等の志は汲んでやっていい。やはり精神は先駆というところにあったと思います。」
 半蔵は若い頃平田国学を学んでいます。尾張藩による木曽の百姓たちへの圧政に深く同情を寄せている半蔵は、人は自然の中でのびのびと暮らすべきだという考えを持ち、尊皇家たちによる討幕運動に希望を見いだしていました。
 伊那から諏訪にかけての南信濃地方は幕末には国学が盛んで、平田篤胤とその子鉄胤の門下が多く塾を開いていました。鉄胤の全国の門人3745人のうち、信濃には627人、そのうち伊那谷の門人は386人にのぼっています。(「信州の百年」より)実に1割が伊那谷の人であったのです。そんな影響が、半蔵の住む木曽馬籠にもありました。
 伊那谷の勤王家でとりわけ有名なのが松尾多勢子です。多勢子は伊那郡山本村(現在の飯田市山本)に生まれ、豪農の松尾家に嫁ぎ七人の子供を育てましたが、50を過ぎてから上洛し、尊皇倒幕の運動に挺身するのです。主に長州藩と公家岩倉具視の連絡役として活躍し、危険な目にもあっています。伊那谷の松尾家には多くの尊皇家が訪れていますが、総三も多勢子を大いに頼りにし、同志募集に協力してくれるよう書簡を送っています。
 信州諏訪も総三にとっては懐かしい土地でした。諏訪へは再三足を運び、文久年間飯島村(現在の諏訪市四賀飯島)の岩波万右衛門(美篶)方に滞在したことがありました。倒幕の同志を求める旅でした。ここで総三は諏訪藩の勤皇家飯田武郷や石城東山(いしがきとうざん)と親しく交わっています。
 諏訪の人たちは処刑され、首級がさらされても総三が偽官軍であるということが納得できなかったのだと思います。そんな思いが無念のうちに死んだ赤報隊士たちの霊を慰めるために魁塚を建て、総三の命日に相楽祭を行ってきたのでしょう。この魁塚には石城東山もまつられています。



Posted by 南宜堂 at 10:29│Comments(0)

 
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