2013年08月31日
長野の石油
■長野に石油精製工場ができる
石堂町・西光寺
苅萱と石童丸の伝説で有名な西光寺はかつての北国街道、現在の中央通り沿いにある古刹だ。明治のはじめ、この西光寺を借りて石油精製の事業を起こした男がいた。水内郡岡山村(現在の飯山市)生まれの石坂周造という。
石坂は明治四年(一八七一)東京に長野石炭油会社を設立した。石炭油とは現在の石油のこと。これは日本ではじめてできた石油会社である。石坂が注目したのは、伺去真光寺村(現在の長野市浅川)で細々と採掘されていた石油であった。この地に石油があることがわかったのは、弘化四年の善光寺地震の時であったという。その後、嘉永年間(一八四八~五四)から採掘がはじまり、明治になって灯油としての利用価値が上がると、本格的に採掘が行われるようになっていた。
石坂は、伺去真光寺の石油を精製して販売することを企て、長野石炭油会社を設立したのだ。会社を設立した石坂は長野に乗り込み、西光寺を借りてここで石油の精製をはじめた。その後、精製場を西光寺の近くの別の場所に建てている。現在の「西友」のあたりだ。この精製場では操業開始当時一年間で約一八九石(三四〇キロリットル)の石油を精製していた。
明治になると、それまで使われていた菜種油の行灯に代わって、石油ランプが普及しはじめた。古い『長野市史』に「明治四、五年の頃に至り、東町に東雲というランプ屋が出来、ランプ・石油を売り始む、町民初めて種油使用の行灯に勝りし一道の光明を認む」と、石油ランプの素晴らしさが述べられている。
日本で最初の石油精製会社をつくった石坂周造とはどんな人物であったのだろうか。新選組の盛衰を描いた子母沢寛の名作『新選組始末記』に、石坂周造のことが描かれている。
文久二年の暮れ、幕府は尽忠報国の士を募るとの触れを出した。これに応じたのが近藤勇、土方歳三、沖田総司といった後に新選組を結成する面々であった。この浪士募集の黒幕となったのが清河八郎という荘内藩の郷士で、石坂周造は清河のもっとも信頼を寄せる同志であった。石坂は清河の意を受けて関東から甲州を歩き、熱心に浪士組への参加を説いた。
子母沢寛によると、石坂は「肝っ玉の太い機略のすぐれた人物」であったと描写されている。石坂は熱烈な尊皇攘夷論者であった。京に上った清河、石坂らは、浪士たちを集め尊皇攘夷のために決起することを迫った。これに対し異を唱えたのが近藤勇や水戸の浪士芹沢鴨のグループであった。結局浪士組は近藤や芹沢を京に残し江戸にもどる。その後清河は見廻組の佐々木只三郎に暗殺され、石坂は逃亡中上総の国佐原で捕らえられ、明治維新は獄中で迎えた。
維新後に釈放された石坂は、幕府の重臣であり明治政府にも人脈をもつ義兄の山岡鉄舟を頼った。山岡の助言もあって石坂が目を付けたのは石油精製業であった。もちろん石油の利用価値は現代のように広いわけではない。せいぜいランプの燃料として使われていた程度であったが、これからは石油ランプの時代がくる、石坂は確信していたようである。
石坂の野心はとどまるところを知らず、新油井の開発、採掘機械の導入、外国人技師の雇い入れと次々に事業を拡大していった。しかし、新しい油井はなかなか見つからず、明治一一年石坂の事業は頓挫してしまう。
結局石坂の事業は失敗に終わるのだが、その原因は彼の猪突猛進ぶりにあったようである。維新後もうまく立ち回り、新政府や県の役人となった志士たちは大勢いたが、石坂のように新時代を生き延びるために事業を興し失敗した者も数多くあった。彼の事業に対する貪欲なまでの執着は、彼を登用しなかった新政府への反逆であったのかとも思われる。
石堂町・西光寺
苅萱と石童丸の伝説で有名な西光寺はかつての北国街道、現在の中央通り沿いにある古刹だ。明治のはじめ、この西光寺を借りて石油精製の事業を起こした男がいた。水内郡岡山村(現在の飯山市)生まれの石坂周造という。
石坂は明治四年(一八七一)東京に長野石炭油会社を設立した。石炭油とは現在の石油のこと。これは日本ではじめてできた石油会社である。石坂が注目したのは、伺去真光寺村(現在の長野市浅川)で細々と採掘されていた石油であった。この地に石油があることがわかったのは、弘化四年の善光寺地震の時であったという。その後、嘉永年間(一八四八~五四)から採掘がはじまり、明治になって灯油としての利用価値が上がると、本格的に採掘が行われるようになっていた。
石坂は、伺去真光寺の石油を精製して販売することを企て、長野石炭油会社を設立したのだ。会社を設立した石坂は長野に乗り込み、西光寺を借りてここで石油の精製をはじめた。その後、精製場を西光寺の近くの別の場所に建てている。現在の「西友」のあたりだ。この精製場では操業開始当時一年間で約一八九石(三四〇キロリットル)の石油を精製していた。
明治になると、それまで使われていた菜種油の行灯に代わって、石油ランプが普及しはじめた。古い『長野市史』に「明治四、五年の頃に至り、東町に東雲というランプ屋が出来、ランプ・石油を売り始む、町民初めて種油使用の行灯に勝りし一道の光明を認む」と、石油ランプの素晴らしさが述べられている。
日本で最初の石油精製会社をつくった石坂周造とはどんな人物であったのだろうか。新選組の盛衰を描いた子母沢寛の名作『新選組始末記』に、石坂周造のことが描かれている。
文久二年の暮れ、幕府は尽忠報国の士を募るとの触れを出した。これに応じたのが近藤勇、土方歳三、沖田総司といった後に新選組を結成する面々であった。この浪士募集の黒幕となったのが清河八郎という荘内藩の郷士で、石坂周造は清河のもっとも信頼を寄せる同志であった。石坂は清河の意を受けて関東から甲州を歩き、熱心に浪士組への参加を説いた。
子母沢寛によると、石坂は「肝っ玉の太い機略のすぐれた人物」であったと描写されている。石坂は熱烈な尊皇攘夷論者であった。京に上った清河、石坂らは、浪士たちを集め尊皇攘夷のために決起することを迫った。これに対し異を唱えたのが近藤勇や水戸の浪士芹沢鴨のグループであった。結局浪士組は近藤や芹沢を京に残し江戸にもどる。その後清河は見廻組の佐々木只三郎に暗殺され、石坂は逃亡中上総の国佐原で捕らえられ、明治維新は獄中で迎えた。
維新後に釈放された石坂は、幕府の重臣であり明治政府にも人脈をもつ義兄の山岡鉄舟を頼った。山岡の助言もあって石坂が目を付けたのは石油精製業であった。もちろん石油の利用価値は現代のように広いわけではない。せいぜいランプの燃料として使われていた程度であったが、これからは石油ランプの時代がくる、石坂は確信していたようである。
石坂の野心はとどまるところを知らず、新油井の開発、採掘機械の導入、外国人技師の雇い入れと次々に事業を拡大していった。しかし、新しい油井はなかなか見つからず、明治一一年石坂の事業は頓挫してしまう。
結局石坂の事業は失敗に終わるのだが、その原因は彼の猪突猛進ぶりにあったようである。維新後もうまく立ち回り、新政府や県の役人となった志士たちは大勢いたが、石坂のように新時代を生き延びるために事業を興し失敗した者も数多くあった。彼の事業に対する貪欲なまでの執着は、彼を登用しなかった新政府への反逆であったのかとも思われる。
Posted by 南宜堂 at 09:36│Comments(0)
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