2007年07月01日
「信濃の国」
最近長野県民となった方と話す機会がありまして、たまたま「信濃の国」の話題が出ました。よそから来た人にはあれは不思議な歌のようですね。私たちはよく知っていますから、全国的に有名な歌ではないかなどと思ってしまいますが、よその県の人はまったく知らない歌のようです。あたりまえか。
修学旅行に行って、たまたま乗り合わせた長野県出身の人の前で歌ったらおかしをいっぱいもらったとか、それと反対に、長野に修学旅行に来る関西の高校生は事前に「信濃の国」を練習するのが必須だというのです。「Hamidas」というびっくりするほど売れたローカル出版物に紹介されています。「バスで宿屋の前につくと、やおら「信濃の国」を歌い出す。出迎えた旅館のあるじ、最初は驚くがやがて嬉しくなり、かくて夕食の品数が一品増えるという次第。」なるほど、さすが関西の高校生です。
そんなありがたい歌が長野県歌となったのは昭和43年といいますから、ずいぶんと冷や飯を食わされてきたということです。「信濃の国」の成立については前に書きました。
さて、時代は約60年前にさかのぼります。昭和23年3月19日、県会本会議の開会をつげるベルが県会議事堂に鳴り響きました。明治以来繰り返されてきた分県、移庁論議がここにきて再燃し、分県論を審議するための本会議です。そのベルが鳴りやむか鳴りやまないうちに、傍聴席の片隅から静かな歌声が湧き起こってきました。「信濃の国は十州に境連ぬる国にしてノノ」県民誰もが知っている「信濃の国」の歌です。歌声は次々と傍聴者の間を伝わり、ついには議場に響き渡る大合唱となったのです。
結局この日の審議は時間切れで散会となり、4月1日に採決に持ち込まれました。有名な松橋議長の欠席によるコロンブス作戦が効を奏して、分県案に賛成二十九票、反対二十六票、白票三票、欠席一でいずれも過半数を取れず、流れてしまいました。
「信濃の国」の大合唱が直接分県の危機を救ったわけではなかったのですが、議場にいた南信側の議員たちは、戦意をくじかれたことを後になって認めています。
今のこどもたちは「信濃の国」を歌うのでしょうか。少なくとも私どもの年代はよく覚えています。たぶん小学校で教わったものがいまだに記憶として残っているのでしょう。
先ほどの最近県民になった方の話ですが、「信濃の国を歌う会」というのがあるのだそうです。一度行ってみたい気もしますが、想像するにその光景はちょっと怖いですね。
■長野版あの人はいま
駐車場になって稼いでおります。

Posted by 南宜堂 at 07:34│Comments(4)
この記事へのコメント
Posted by みうみうBETTY at 2007年07月01日 09:58
4番の♪たずね〜ほ〜しきそのはらや〜♪のところはどうしてそこだけ
曲が変わるのでしょうね?結構好きです。そこのところ。
曲が変わるのでしょうね?結構好きです。そこのところ。
Posted by みうみうBETTY at 2007年07月01日 10:00
長野県版あの人は今!写真!
たしかに。。。駐車場になって稼いでいますね。(笑)そこはかとなくさみしいですね。。向かい側のベーカーズストリートにいくときは停めます。
今、子供と信濃の国を歌ってみましたが、6番まで(でしたよね?)全部は
うろ覚えで歌えませんでした。。長過ぎるよ。。と子供は言っております。
信濃の国は十州で広いからだよ。。と答えましたが。。。??
たしかに。。。駐車場になって稼いでいますね。(笑)そこはかとなくさみしいですね。。向かい側のベーカーズストリートにいくときは停めます。
今、子供と信濃の国を歌ってみましたが、6番まで(でしたよね?)全部は
うろ覚えで歌えませんでした。。長過ぎるよ。。と子供は言っております。
信濃の国は十州で広いからだよ。。と答えましたが。。。??
Posted by みうみうBETTY at 2007年07月01日 10:08
みうみうBETTYさま
小学生の記憶力というのは凄いですね。九九なんかもいまだにいえますもの。
さて、「信濃の国」の4番ですが、作曲者北村季晴のアイデアだろうと勝手に想像しています。北村は後にプロの音楽家になります。宝塚少女歌劇の第1回作品は北村の作曲になるものです。北村作曲の「信濃の国」は師範学校の運動会に女子部の生徒たちが行う遊戯のために書かれたものです。だから振り付けがあるのですが、今の小学生は遊戯も教わりますか?
ここから先は音楽も遊戯も苦手な私の推測です。「信濃の国」はけっこう勇壮な曲です。4番だけが突然優雅なメロディーになりますよね。3番から4番、さらに4番から5番への転調の落差を強調したかったのではないかと想像しています。勇壮から優雅へそして勇壮へ、これを少女たちのが演じることで、新鮮な感動が観客を虜にしたのではないかと思っています。
小学生の記憶力というのは凄いですね。九九なんかもいまだにいえますもの。
さて、「信濃の国」の4番ですが、作曲者北村季晴のアイデアだろうと勝手に想像しています。北村は後にプロの音楽家になります。宝塚少女歌劇の第1回作品は北村の作曲になるものです。北村作曲の「信濃の国」は師範学校の運動会に女子部の生徒たちが行う遊戯のために書かれたものです。だから振り付けがあるのですが、今の小学生は遊戯も教わりますか?
ここから先は音楽も遊戯も苦手な私の推測です。「信濃の国」はけっこう勇壮な曲です。4番だけが突然優雅なメロディーになりますよね。3番から4番、さらに4番から5番への転調の落差を強調したかったのではないかと想像しています。勇壮から優雅へそして勇壮へ、これを少女たちのが演じることで、新鮮な感動が観客を虜にしたのではないかと思っています。
Posted by 南宜堂 at 2007年07月01日 23:57
現在の小学校では、信濃の国を音楽の時間に習います。だからうちの子供達も歌えます。
中学校ではもう歌いません。やっぱり小学校の記憶なんでしょうね。