2007年07月26日
ワンコイン南宜堂 生きるかなしみ
山田太一・編 筑摩書房1991年発行
生きるということはさまざまな悲しみに出会わなければならないということは誰でもわかっています。わかっていますがなるべくはそういうことには目をふさいで楽しいことだけを考えていきたいというのが本音ではないでしょうか。だからこんなタイトルの本はどうにも売れそうにありません。
この本のなかには古今東西さまざまな人の文章が収録されています。いわばアンソロジーなのですが、その中から佐藤愛子は老いることの心構えを次のように述べています。「若い世代に理解や同情を求めて「可愛い老人」になるよりも、私は一人毅然と孤独に耐えて立つ老人になりたい。」
今の時代快楽が幸福であると信じられているようで、老いてもいつまでも若者のような感性をもち、恋愛をしなさいということが、可愛い老人の条件として求められているというのです。老人の側にもそんな風潮に乗り、可愛い老人を演出して悦に入っている人も多いようです。しかし、体と記憶の衰えは何ともしようがなく、容貌の衰えも隠せません。
芹沢俊介さんは、今の社会は「する」を基準にして成り立っているといいます。すなわち、何をしてきたか、何ができるかということがその人の価値を決めるというのです。だから、老いることで「する」ということが人並みに出来なくなることは淋しいことであるといいます。しかし、人は誰も老いを止めることはできません。
老いの過程というのはそんな「する」という価値観から「ある」という価値観への移行の過程であるといいます。多くの人はこの移行をなかなか受け入れられず、いつまでも「する」にしがみつこうとするのです。そこに「生涯現役」とか「老いてますますさかん」などという言葉がもてはやされるのでしょう。
「する」という価値観の中で生きてきた人が「ある」という価値観に自らを置くということはたいへん悲しいことです。私もこの年になってもいまだ何ができるかということにこだわっていることを認めないわけにはいきません。しかし、心身の衰えと共に徐々に自分を傍観者の場に置き、「晴耕雨読」を日常にしていくことを自分に言い聞かせていかなければならないのではないかと思うのです。
Posted by 南宜堂 at 21:09│Comments(0)