2007年09月21日
長野の花火
今晩は安茂里の犀川神社のお祭りで、名物の花火も盛大に打ち上げられていたようです。長野の秋は花火の上がらない日はないというくらい、秋祭りと花火はつきものですが、その中でも特に有名なのが安茂里犀川神社の杜花火と新諏訪の瓜割花火でしょう。瓜割花火は残念ながら見たことがありませんが、犀川神社の杜花火は何年か前に見ることができました。狭い境内の中、まさに森の中を花火が走るという感じで、ハラハラの花火でした。これらの花火はいわゆる仕掛け花火です。ほかに県内で有名な清内路の花火は手持ちの花火で、これはルーツが三河地方にあるようです。
それでは、長野の花火のルーツはどこなのか。一説には川中島をはじめ、うち続く戦乱の中で武器を扱う火薬技術者たちがこの地に定着して、平和の世になってから花火づくりをはじめたのではないかという人もいます。いずれにせよ、明治以前は花火師は専門の職業というわけではなく、村に伝わる伝統の技術であったようです。神楽が代々伝えられる芸能であるようにです。
そんな村の花火自慢が集まって仕掛け花火の中に打ち上げの技術を取り入れたのが明治のはじめ頃のことといわれています。明治11年明治天皇の信州巡幸に際して長野の花火自慢たちが集まって、打ち上げ花火に挑戦したのです。打ち上げた場所は柳町田圃といいますから後のえびす講花火の場所の高土手の近くです。明治天皇が花火を御覧になった場所は城山でした。ここから見るには柳町が打ち上げの絶好の場所であったようです。
ところで花火といえば夜空を彩るというように、夜と色が当然のように語られるわけですが、この時の花火は昼花火でした。当時の技術ではまだ花火に色が付けられなかったのです。そのかわりに花火が大音響と共に開いた後には「ふうて」とよばれるニワトリや釣り鐘や旗などが落下傘のように大空に舞ったのです。
えびす講の花火については、以前この欄で書いたことがありますので重複は避けますが、第1回は明治33年、打ち上げ場所は柳町の高土手でした。
現在の高土手あたりです。

Posted by 南宜堂 at 23:03│Comments(0)