2010年09月08日
善光寺へ行こう
圧倒的な視聴率を誇った「龍馬伝」、最近少々鼻につくと感じるようになってきたのは私だけでしょうか。まあ、相変わらず見てはいるのですが、「誰もが笑って暮らせる世の中をつくる」などと言われても、今はそんな世の中に近づいているのかといえば、かえって遠ざかっているのではないかと思えたりしますし、外国のいいなりにならない日本といったところで、沖縄の現状を見たら白々しくなってしまうのではないでしょうか。 龍馬が道半ばで倒れたからいけなかったなどとはよもや言う方はいないと思いますが、坂本龍馬とて時代を個人で切り開くほどの力量を持っていたわけではなく、一つの時代の潮流に乗って力を尽くしていたと考えた方がいいでしょう。一つの時代の潮流とは、ヨーロッパやアメリカがそうであったような、近代資本主義社会です。
ヨーロッパやアメリカでは、その担い手は台頭してきたブルジョア階級なのですが、日本においては相変わらず武士階級です。ですから明治維新というのは、武士の覇権争いでありました。幕府という武士階級と薩摩・長州という武士階級の覇権争いであったわけです。
幕府は徳川絶対主義のようなものを指向していたようですが、薩摩や長州だって口では天子様の下の平等を言ってみても、隠した袖の下から薩長絶対主義があっかんべーをしていたのではないでしょうか。
明治維新の不幸は絶対的多数である武士以外の階級が完全に蚊帳の外にいたことです。司馬遼太郎は武士のことを読書階級という風に呼んでいますが、読書階級以外のものたちにはそれは無関係な革命だったということです。読書しない階級というのは、どうもなかなか理では動かなかった階級のようです。圧政には一揆をもって抵抗し、生活苦には「ええじゃないか」でうさを晴らすのですが、なかなか理をもって世の中を変革するということには加わることはなかったのです。
「龍馬伝」に登場する志士たちは、まさに理をもって世の中を変えようとした人たちです。それによってできたのが明治政府であれば、それもやはり理をもって世の中を発展させようとした政府です。その延長にある現代もやはり理の世界であるわけです。
「龍馬伝」から善光寺に話をつなげるのは、風が吹けば桶屋が儲かる式の話よりさらに飛躍が必要な話なのかもしれません。
中世において、善光寺の門前町は全国でも有数の賑わいを誇っていたようなのです。室町時代に書かれた『大塔物語』の中に「およそ善光寺は三国一の霊場、生身の阿弥陀様の浄土であり、日本の港とも言えるほど人の集まるところであって、門前市をなしている。」というくだりがあります。院坊が整備され、僧侶や仏師などの職人が住んでいたという記録も残されています。
中世においても、長野の地理的な条件や気候的な条件が今と異なっていたとは思えません。にもかかわらず長野が「日本の港」とよばれるほどに賑わっていたのは、産業があったわけでも交通の要地であったわけでもない。ましてや政治都市であったわけでもありません。善光寺信仰のおかげなのです。
ヨーロッパやアメリカでは、その担い手は台頭してきたブルジョア階級なのですが、日本においては相変わらず武士階級です。ですから明治維新というのは、武士の覇権争いでありました。幕府という武士階級と薩摩・長州という武士階級の覇権争いであったわけです。
幕府は徳川絶対主義のようなものを指向していたようですが、薩摩や長州だって口では天子様の下の平等を言ってみても、隠した袖の下から薩長絶対主義があっかんべーをしていたのではないでしょうか。
明治維新の不幸は絶対的多数である武士以外の階級が完全に蚊帳の外にいたことです。司馬遼太郎は武士のことを読書階級という風に呼んでいますが、読書階級以外のものたちにはそれは無関係な革命だったということです。読書しない階級というのは、どうもなかなか理では動かなかった階級のようです。圧政には一揆をもって抵抗し、生活苦には「ええじゃないか」でうさを晴らすのですが、なかなか理をもって世の中を変革するということには加わることはなかったのです。
「龍馬伝」に登場する志士たちは、まさに理をもって世の中を変えようとした人たちです。それによってできたのが明治政府であれば、それもやはり理をもって世の中を発展させようとした政府です。その延長にある現代もやはり理の世界であるわけです。
「龍馬伝」から善光寺に話をつなげるのは、風が吹けば桶屋が儲かる式の話よりさらに飛躍が必要な話なのかもしれません。
中世において、善光寺の門前町は全国でも有数の賑わいを誇っていたようなのです。室町時代に書かれた『大塔物語』の中に「およそ善光寺は三国一の霊場、生身の阿弥陀様の浄土であり、日本の港とも言えるほど人の集まるところであって、門前市をなしている。」というくだりがあります。院坊が整備され、僧侶や仏師などの職人が住んでいたという記録も残されています。
中世においても、長野の地理的な条件や気候的な条件が今と異なっていたとは思えません。にもかかわらず長野が「日本の港」とよばれるほどに賑わっていたのは、産業があったわけでも交通の要地であったわけでもない。ましてや政治都市であったわけでもありません。善光寺信仰のおかげなのです。
Posted by 南宜堂 at 20:17│Comments(2)
この記事へのコメント
Posted by 照桂院 at 2010年09月09日 00:34
照桂院さま
長野県の北に住む私が高遠(長野県の南部にあります)といって思い出すのは桜です。そして高遠まんじゅう。
最近高遠に保科正之と生母お静の方の石像ができました。しかし、正之が高遠でどんな政治をしたのか、どちらかというと中央政界で活躍した人ではないかと思っています。
しかし、保科家が会津に移封されるに当たって、多くの家臣が同行したわけで、有賀とか小原(庄助さんで有名な)の姓は伊那地方に多くあります。
北信濃でいえば、上杉景勝に従って会津に移った家臣の中にもこの辺から行ったものも多かったようです。
長野県の北に住む私が高遠(長野県の南部にあります)といって思い出すのは桜です。そして高遠まんじゅう。
最近高遠に保科正之と生母お静の方の石像ができました。しかし、正之が高遠でどんな政治をしたのか、どちらかというと中央政界で活躍した人ではないかと思っています。
しかし、保科家が会津に移封されるに当たって、多くの家臣が同行したわけで、有賀とか小原(庄助さんで有名な)の姓は伊那地方に多くあります。
北信濃でいえば、上杉景勝に従って会津に移った家臣の中にもこの辺から行ったものも多かったようです。
Posted by 南宜堂
at 2010年09月09日 09:10

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HNから分かると思いますが、私は会津ファンです。
長野と聞いてまず思い浮かべるのは高遠ですね。
保科家、よくぞ良いところに正之が入ってくれたと思っています。