2010年09月14日
日々是好日 玉蟲左太夫
玉蟲左太夫の「航米日録」の現代語訳が出版された。題して「仙台藩士幕末世界一周 玉蟲左太夫外遊録」、仙台の荒蝦夷の出版で、定価は税込み2205円。 玉蟲左太夫については、この欄でも何回が書かせていただいた。150年前の1860年、日米修好通商条約の批准書交換のため軍艦ポーハタンでアメリカに渡った使節団の一員として参加し、その記録を「航米日録」として克明に書き残した。このとき、玉蟲の資格は正使新見豊前守の従者という資格であった。同時期にアメリカに渡った咸臨丸の提督木村摂津守の従者として参加した福沢諭吉と同じ程度の位であったのだろう。
慶応4年(1868)に発生した戊辰戦争では、仙台藩軍務局副統取として会津救済のための奥羽越列藩同盟の結成に尽力したが、仙台藩の降伏のためその責任を責められ、明治2年に切腹を命ぜられたのである。
「私は、ポーハタンに乗った小栗、咸臨丸に乗った勝と福沢に、近代国家の招来に果した共通のものを感じている。飛躍するようだが、メイフラワー号で新大陸にわたったピルグリム・ファーザーズと似たような色合いを感じたりするのである。」
このように書いているのは司馬遼太郎だが、明治の世界を見ることなく刑死した玉蟲左太夫にはそういう栄誉を冠してはもらえなかった。小栗も明治までは生きられなかったが、幕末時にすでに幕府の要職に就いていた小栗は後世においても、その業績を評価されたのである。
玉蟲らは米国の船に乗り、米国人と生活を共にしつつアメリカを目指したのであるが、その旺盛な好奇心と正確な観察眼で西洋の科学技術、風俗、人情を克明に記録した。科学技術については無条件に学ぶべきものとして賞賛しているが、米国人の礼儀のなさやモラルの欠如には遠慮なく批判している。
帰国後玉蟲は、仙台藩校養賢堂の指南統取の地位に就く。藩の時代を担う若者たちの教育に尽くす傍ら、藩の産業振興にも力を尽くしている。しかし、まもなく勃発した戊辰戦争により、そんな玉蟲の志も挫折を余儀なくされるのである。
戊辰戦争において、玉蟲はどんな働きをしたのか。仙台藩自身は抗戦路線を取っていたわけではない。他の奥羽諸藩に呼びかけて、会津に対する寛典を官軍に願い出ている。玉蟲はそのために東奔西走しているのである。しかし、情勢は彼の思うようには進まなかった。やがて奥羽各藩は薩長への対決姿勢を強めるようになり、戦争へと進んでいくのである。
玉蟲が戦争を望んでいたとは思えない。この戦争をどのようにとらえていたのか、そして戦争後の奥羽のことについて思いは及んでいたのであろうか。「航米日録」の中にそれを推理する材料はあるのだろうか。興味は尽きないのである。
慶応4年(1868)に発生した戊辰戦争では、仙台藩軍務局副統取として会津救済のための奥羽越列藩同盟の結成に尽力したが、仙台藩の降伏のためその責任を責められ、明治2年に切腹を命ぜられたのである。
「私は、ポーハタンに乗った小栗、咸臨丸に乗った勝と福沢に、近代国家の招来に果した共通のものを感じている。飛躍するようだが、メイフラワー号で新大陸にわたったピルグリム・ファーザーズと似たような色合いを感じたりするのである。」
このように書いているのは司馬遼太郎だが、明治の世界を見ることなく刑死した玉蟲左太夫にはそういう栄誉を冠してはもらえなかった。小栗も明治までは生きられなかったが、幕末時にすでに幕府の要職に就いていた小栗は後世においても、その業績を評価されたのである。
玉蟲らは米国の船に乗り、米国人と生活を共にしつつアメリカを目指したのであるが、その旺盛な好奇心と正確な観察眼で西洋の科学技術、風俗、人情を克明に記録した。科学技術については無条件に学ぶべきものとして賞賛しているが、米国人の礼儀のなさやモラルの欠如には遠慮なく批判している。
帰国後玉蟲は、仙台藩校養賢堂の指南統取の地位に就く。藩の時代を担う若者たちの教育に尽くす傍ら、藩の産業振興にも力を尽くしている。しかし、まもなく勃発した戊辰戦争により、そんな玉蟲の志も挫折を余儀なくされるのである。
戊辰戦争において、玉蟲はどんな働きをしたのか。仙台藩自身は抗戦路線を取っていたわけではない。他の奥羽諸藩に呼びかけて、会津に対する寛典を官軍に願い出ている。玉蟲はそのために東奔西走しているのである。しかし、情勢は彼の思うようには進まなかった。やがて奥羽各藩は薩長への対決姿勢を強めるようになり、戦争へと進んでいくのである。
玉蟲が戦争を望んでいたとは思えない。この戦争をどのようにとらえていたのか、そして戦争後の奥羽のことについて思いは及んでいたのであろうか。「航米日録」の中にそれを推理する材料はあるのだろうか。興味は尽きないのである。
Posted by 南宜堂 at 21:08│Comments(2)
この記事へのコメント
Posted by 乳井 at 2010年09月23日 14:01
乳井様
玉蟲左太夫の「航米日録」は拝読させていただきました。
佐久間象山は「ことをなすのは吉田寅次郎、我が子の教育を託すなら小林虎三郎」ということを言ったそうですが、玉蟲左太夫という人は革命家でも教育者でもなく実務家あるいは研究者ではなかったかと思います。それがまず私が抱いた感想でした。
ですから奥羽越列藩同盟推進の仕事も養賢堂の講義も彼には不向きな仕事であったと思います。
千葉卓三郎との関係はもう少し考えさせていただくとして、会津救済について、打算より心情が勝ったからかと思う次第です。
航海中、左太夫は異人の習俗や考え方、仕事ぶりなどを細かく観察して感想をもらしています。上下の区別なく仕事をする姿や飾らない親しみやすさには同感の意を表していますが、礼儀のなさや野蛮なところは好きになれなかったようです。結論としてアメリカ人は儒教の精神を知らないせいだと思ったようです。
左太夫は会津に使いして、儒教精神に貫かれた藩士たちに感動したのではないかと思います。それに反して仙台に進駐した長州の暴虐無人ぶりにアメリカ的なものを感じたのだと思います。
もちろん交渉ごとは彼一人の宰領で決まるものではないし、まして彼はそれほど身分の高い身ではありませんでした。しかし彼の心情に即していえばそんな思いではなかったかと推測するのです。
玉蟲左太夫の「航米日録」は拝読させていただきました。
佐久間象山は「ことをなすのは吉田寅次郎、我が子の教育を託すなら小林虎三郎」ということを言ったそうですが、玉蟲左太夫という人は革命家でも教育者でもなく実務家あるいは研究者ではなかったかと思います。それがまず私が抱いた感想でした。
ですから奥羽越列藩同盟推進の仕事も養賢堂の講義も彼には不向きな仕事であったと思います。
千葉卓三郎との関係はもう少し考えさせていただくとして、会津救済について、打算より心情が勝ったからかと思う次第です。
航海中、左太夫は異人の習俗や考え方、仕事ぶりなどを細かく観察して感想をもらしています。上下の区別なく仕事をする姿や飾らない親しみやすさには同感の意を表していますが、礼儀のなさや野蛮なところは好きになれなかったようです。結論としてアメリカ人は儒教の精神を知らないせいだと思ったようです。
左太夫は会津に使いして、儒教精神に貫かれた藩士たちに感動したのではないかと思います。それに反して仙台に進駐した長州の暴虐無人ぶりにアメリカ的なものを感じたのだと思います。
もちろん交渉ごとは彼一人の宰領で決まるものではないし、まして彼はそれほど身分の高い身ではありませんでした。しかし彼の心情に即していえばそんな思いではなかったかと推測するのです。
Posted by 南宜堂
at 2010年09月24日 09:24

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先の「でもくらちを考える」の延長線です。航米日録を読んで、戊辰戦争の当事者の一人としての左太夫が、戦争回避を何故出来なかったかを推論するのは大変難しいと思います。
日録を記した1860年と戊辰戦争の1868年の間に左太夫の考え方が変わったのか変わらなかったのかを推論必要があるからです。
私は、左太夫の洞察力と思想の変化に哲学的なものを感じますので、時代の変化でも思想に進展はあっても後退はないと想いっています。
日録の一節に「上下の区別なきは国の強さに他ならない」という意のことが記されていますが、この考え方が変わらないとすると、戊辰戦争での内戦で、国家の在り方として、薩長と反薩長の間が、そのような理想の関係にあったかは、薩長の行動を見ていると否の答えは明白だと思います。どちらも国家の在り方を見失うことはなかったでしょうが、結果は誰が権力を持つかという、袖の下のことしか見えなかったのは薩長側に大きかったのではないでしょうか。それが、徳川幕府体制を崩壊させるという大義名分があったとしても。
日本には民主主義的な思想はこのときには一部の人にしか芽生えていなかったのだと思います。
左太夫は仙台藩の執政の交替で牢獄の身となります。身内に当てた手紙に無念さを訴えています。当時、武士としてはそのようなことを言うのは、武士の風上にも置けないというのが趨勢でしょうから、左太夫がそのように吐露したのは封建制度を超越した人物であると言っても過言ではないと思います。
でも、そのよう人物が思想的に指導的な役割を仙台藩でやっていたにも関わらず戦争になってしまいました。そして戦争に負けて左太夫は身の危険を感じて逃避します。このこことも、武士の行動としては非難されるものです。
しかし、それを非難するのは高い理想を捨てよと言ってるようなものではないでしょうか。
理想を捨てなかった。それは崇高な生き方通した一生だと思います。
左太夫は実践家ではなく、思想家と私は捉えています。
その考え方は太平洋戦争(第二次世界大戦)後に日本で実現した思っています。ですから、わしは左太夫の墓前で「あたたの思う日本になりましたよ」と報告しています。