2007年04月08日

かるかや伝説


 北石堂町の中央通り沿いに、長野市民から「かるかやさん」とか「かるかや堂」と呼ばれて親しまれているが西光寺があります。正式には苅萱山西光寺、浄土宗の寺です。寺の縁起によれば、苅萱道心と子の石童丸が晩年に高野山より移り住んだ場所であるといいます。西光寺の本尊は親子地蔵です。西光寺の境内には、苅萱と石堂丸の出会いの姿を刻んだ銅像や、苅萱、石堂丸、母千里御前の墓などがあります。
 苅萱上人と石童丸の悲話は、十七世紀のはじめころ善光寺の境内で説経師によって語られた説経節です。昔の善光寺には、仏の功徳を参拝者に語り聞かせる説経師と呼ばれる人々がいました。彼らは境内にむしろを敷き、大きな唐傘を立てて、ささらを擦りながら節をつけて説経節を語ったといいます。
 「かるかや」の物語はそんな説経師たちによって語り継がれたものです。しかし、説経節も江戸時代になり、浄瑠璃が起こってくると徐々にすたれていきました。それでも「苅萱」「山椒太夫」「小栗判官」といったいくつかの物語は、つい最近まで多くの人が知っていました。しかし、現代では「苅萱」といい「小栗」といってもほとんどの人がそのあらすじさえ知らなくなっています。説経節の源流をたずねれば、高野聖や山伏といった廻国の宗教者たちにたどりつくのです。彼らが民衆を前に語った仏教説話のおもしろいところが強調され、伴奏や節がつけられて語られるようになったものといわれています。
 「苅萱」の物語もおそらくは高野聖たちによって善光寺に伝わり、苅萱親子が善光寺で晩年を過ごした物語が付け加えられて語られてきたものでしょう。西光寺や善光寺の裏山にある往生寺はそんな聖たちが開いた寺ではないかといわれています。

 筑前の国の武士団の党首加藤左衛門重氏は、世の無常をはかなみ、身重の奥方を残して突然出家します。やがて奥方は男の子を出産し、石童丸と名付けられました。十三歳になった石童丸は、まだ見ぬ父恋しさに母と共に高野山をたずねます。そこで石童丸は父苅萱道心と出会うのですが、父とは気づきません。苅萱は我が子であることを直感するのですが、信心が鈍ることを恐れ、父であることを名乗らず、そなたの父は死んだと石童丸に告げます。高野山から下り麓の村に帰ってみると、長旅の疲れか母は亡くなっていました。母を失った石童丸は、再び高野山に行き、苅萱の弟子となり三十四年間を共に過ごします。
 やがて苅萱は、善光寺如来のお告げで信州の善光寺へと行きます。残された石童丸は、ある日善光寺の方角に雲がたなびくのを見て、父苅萱の死を知るのです。石童丸は父の菩提を弔うために信州に下り、今の西光寺で親子地蔵を刻みながらその生涯を終えたということです。
 というのが、「苅萱」のあらすじなのですが、苅萱が善光寺に行くというくだりはいかにも後からとってつけたような感は否めません。高野山の麓にも苅萱堂があって、そこは萱堂聖と呼ばれる高野聖の一団の本拠地でした。ここにも苅萱の伝説があります。高野山と善光寺、離れた二つの聖地を結ぶ聖のネットワークの存在が想像できます。
 善光寺聖については、また善光寺に詣った時に考えることがあるでしょう。



Posted by 南宜堂 at 00:03│Comments(0)

 
<ご注意>
書き込まれた内容は公開され、ブログの持ち主だけが削除できます。