2010年07月08日
映画「ザ・コーヴ」のこと 2
テレビ番組が伝えていたのは、上映しようと決意した横浜の映画館の支配人の姿であった。彼は以前「靖国YASUKUNI」という映画の上映を、激しい反対活動で断念せざるをえなかったという、苦い経験をもっていた。
この横浜の映画館での上映をめぐっては、動画サイトにショッキングな映像が流された。支配人の自宅近くに街宣車を走らせ、支配者の母親に脅迫めいた言葉で上映の中止を迫る者たちの姿であった。
太地町で行われているイルカ漁については、日本の食文化であるとして肯定する立場と、残酷な動物虐待であるとして断固やめるべきであるという立場があって、「ザ・コーヴ」は後者の立場に立って描いた映画である。
この映画を制作したものたちには、意図的な演出で残虐性を強調しているのではないかという批判も出ている。そういった悪意をもって作られた映画を、日本の映画館で上映させるべきではないというのが反対するものたちの立場である。
結局映画「ザ・コーヴ」は、映画そのものの内容より、その上映をめぐって起こった賛否の運動の方が話題となり、それによって映画の存在も知られるようになったという皮肉な結果になってしまった。
このNHKのドキュメンタリー番組を見ながらふと思ったのは、最近同じようなことが自分の周りでも起こったなあということであった。時々このブログでも書いている「ネット社会の非常識」の一連の騒動のことである。
事の発端は、趣味の会の掲示板への会員の投稿を、主宰者や取り巻きが勝手に削除してしまったということであった。その理由として、個人を誹謗中傷する投稿であったからとか、掲示板が混乱したからだということを言っているのだが、これは「ザ・コーヴ」が国辱的な映画だから上映すべきではないという論理とよく似ている。要するに主観なのである。そして、それを実力行使によって阻止しようという行為もよく似ているのである。
この映画が上映するのにふさわしいかどうか判断するのは誰なのか。自分たちの主観に基づいて反対活動をすればいいことなのか。
主宰者たちの削除という行為についても、投稿の内容が個人への誹謗中傷であるということは誰が判断して削除したのか。それは彼らの主観ではないのか。
私は民主主義というのは、さまざまな意見を尊重することであると思っている。それを主宰者たちの勝手な判断で、自分たちに都合の悪い意見を削除という形で封殺してしまっていいものなのか。
街宣車を走らせて、自分たちの主張を一方的に述べるものたちの行為とそれは一緒ではないのか。主宰者たちは、自分たちに批判的な意見を封殺する方法として、削除という街宣車を発見したのである。
私のブログを読んでいただいている方には、この後主宰者と取り巻きが取った行動については、すでにご存知のことと思う。会を偽装解散し、同名の会を立ち上げたのである。
この新しい会の会則は以前にも引用したように、
会の運営を混乱させる誹謗や中傷をしない。
会の秩序維持に協力する。
これが最低の条件です。
上記の会則に違反した方は、退会して頂く事になります。
また、思想信条の異なる方の入会はお断りします。
という簡単なものだが、ここには意見の封殺と言う暴力装置を合法的に使用できることがうたわれている。すなわち「思想信条の異なる方の入会はお断りします。」である。ここには思想信条の中身については何も述べられていない。つまりは主宰者あるいはその意を受けた取り巻きの主観こそが思想信条の基準であり、それに添えないものは会を去りなさいということなのである。まさに暴力装置、言葉の街宣車なのである。
この横浜の映画館での上映をめぐっては、動画サイトにショッキングな映像が流された。支配人の自宅近くに街宣車を走らせ、支配者の母親に脅迫めいた言葉で上映の中止を迫る者たちの姿であった。
太地町で行われているイルカ漁については、日本の食文化であるとして肯定する立場と、残酷な動物虐待であるとして断固やめるべきであるという立場があって、「ザ・コーヴ」は後者の立場に立って描いた映画である。
この映画を制作したものたちには、意図的な演出で残虐性を強調しているのではないかという批判も出ている。そういった悪意をもって作られた映画を、日本の映画館で上映させるべきではないというのが反対するものたちの立場である。
結局映画「ザ・コーヴ」は、映画そのものの内容より、その上映をめぐって起こった賛否の運動の方が話題となり、それによって映画の存在も知られるようになったという皮肉な結果になってしまった。
このNHKのドキュメンタリー番組を見ながらふと思ったのは、最近同じようなことが自分の周りでも起こったなあということであった。時々このブログでも書いている「ネット社会の非常識」の一連の騒動のことである。
事の発端は、趣味の会の掲示板への会員の投稿を、主宰者や取り巻きが勝手に削除してしまったということであった。その理由として、個人を誹謗中傷する投稿であったからとか、掲示板が混乱したからだということを言っているのだが、これは「ザ・コーヴ」が国辱的な映画だから上映すべきではないという論理とよく似ている。要するに主観なのである。そして、それを実力行使によって阻止しようという行為もよく似ているのである。
この映画が上映するのにふさわしいかどうか判断するのは誰なのか。自分たちの主観に基づいて反対活動をすればいいことなのか。
主宰者たちの削除という行為についても、投稿の内容が個人への誹謗中傷であるということは誰が判断して削除したのか。それは彼らの主観ではないのか。
私は民主主義というのは、さまざまな意見を尊重することであると思っている。それを主宰者たちの勝手な判断で、自分たちに都合の悪い意見を削除という形で封殺してしまっていいものなのか。
街宣車を走らせて、自分たちの主張を一方的に述べるものたちの行為とそれは一緒ではないのか。主宰者たちは、自分たちに批判的な意見を封殺する方法として、削除という街宣車を発見したのである。
私のブログを読んでいただいている方には、この後主宰者と取り巻きが取った行動については、すでにご存知のことと思う。会を偽装解散し、同名の会を立ち上げたのである。
この新しい会の会則は以前にも引用したように、
会の運営を混乱させる誹謗や中傷をしない。
会の秩序維持に協力する。
これが最低の条件です。
上記の会則に違反した方は、退会して頂く事になります。
また、思想信条の異なる方の入会はお断りします。
という簡単なものだが、ここには意見の封殺と言う暴力装置を合法的に使用できることがうたわれている。すなわち「思想信条の異なる方の入会はお断りします。」である。ここには思想信条の中身については何も述べられていない。つまりは主宰者あるいはその意を受けた取り巻きの主観こそが思想信条の基準であり、それに添えないものは会を去りなさいということなのである。まさに暴力装置、言葉の街宣車なのである。
Posted by 南宜堂 at 14:58│Comments(0)
│ネット社会
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