2010年06月03日

会津藩追討

 戊辰戦争の後半戦については、今までまともに書かれたものを読んだことがなかった。
 江戸城の無血開城そして彰義隊の壊滅、これをもって江戸幕府は実質的に滅びたわけだから、政治史としては後は明治元年の「五箇条の御誓文」あたりにつながればいいわけだ。
 では、その後の東北での戦争、蝦夷地での戦争とは何だったのか。新政府にしてみれば、抵抗勢力の排除という意味合いしかもたなかった。
 一方の対抗する会津や東北諸藩にしてみても、理不尽な薩長に対する抵抗戦という観点からとらえるのが一般的である。
 抵抗する会津などの視点で書かれたものも、会津の正義を強調したり、亡びの美をうたい上げたものが多く、歴史書として読むならばまともに読めないしろものが多い。

 慶応4年1月17日、仙台藩主伊達慶邦に対し会津藩追討の命が下った。これに対し慶邦は、2月11日に五箇条にわたる建白書を起草し、大条孫三郎を使者として京都に遣わした。その内容は、鳥羽伏見の戦いでは先に発砲したのが会津や桑名なのか、それとも薩摩なのかはっきりしない。それを会津藩だけを追討の対象とするのはおかしいのではないかというものであった。
 この建白書は在京中の三好堅物に、提出の時期を失していると反対され、引っ込めてしまったのである。慶邦はこの時の三好の行為に対して激怒したというのだが、彼はこの建白が採用され、会津が救済されるなどとほんとうに思っていたのだろうか。この時の朝廷を牛耳っていたのは薩摩であるというのは自明の理であった。その朝廷に、非は会津にだけあるのではなく、薩摩にもある。どうか寛大な御処置をと訴えたところで、却下されるのは当然のことなのではないか。
 このとき慶邦が大藩仙台の力を背景に、朝廷に対して自らの意見を披露して認めさせようとしていたのなら、それは大きな誤算であった。奥羽の雄でありながら、仙台藩は幕末の政局に何ら関与してこなかったのである。
 同じ頃、といってもひと月も前になるが、勝海舟も将軍徳川慶喜の救済のための嘆願を大総督府にしている。そこには、「伏見の挙、小卒の誤りに発す。すでに先五六年、毛利家、闕下に不敬ありといえども、その情実判然たる時は、また今日のごとし、天朝といえども、一も誤りなしといわんや、いわんやわが徳川氏においてをや。」と、伊達慶邦と同じような論理で幕府を擁護した後に、さらに外国の脅威をあげ、いたずらにここで戦端を開けば、中国やインドの轍を踏むことになると警告しているのである。
 そして、同じようなことを当時参与であった松平慶永にも書き送り、大総督府への仲介を依頼しているのである。実に周到な方法をとっているのである。
 これに比べると仙台藩の嘆願は杜撰のそしりを免れない。会津追討令の引き延ばしのためのアリバイ工作に取りあえず建白書を出そうとしたのか、それとも京の情勢に暗かったのか。私は両方ではないかと思うのだが、奥羽越列藩同盟に向けての動きははじめから緊張感を欠いていた。


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Posted by 南宜堂 at 23:44│Comments(0)幕末・維新
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