2010年06月18日

龍馬の幽霊

 坂崎紫瀾の小説「汗血千里駒」が高知の土陽新聞に連載されるのは、明治16年、さらに単行本となって多くの読者を得るのは、2年後の明治18年のことである。これをもって坂本龍馬伝の嚆矢とされているわけであるが、司馬遼太郎は「歴史と小説」と題したエッセィ集の中で、龍馬復活についての興味深い話を紹介している。
 時は明治37年2月、日露開戦の前夜のことである。皇后(昭憲皇太后)の夢に、白装束の武士があらわれた。彼は自分は坂本龍馬であると名乗り、「魂魄は御国の海軍にとどまり、いささかの力を尽すべく候。勝敗のこと御安堵あらまほしく」と言って消えたのだという。この話は東京中の新聞に載り、世間は一時その話でもちきりになった。
 司馬はこの夢の話について、「竜馬の性格からみて夢枕に立つような趣味はなさそうだが」と断ったあとで、「意地わるくみれば、当時、そのころの流行語である「恐露病」にかかっていた国民の士気をこういうかたちで一変させようとしたのではないかと思われるし、さらに意地悪くみれば、(中略)土佐株をあげるために宮中関係者のあいだでこういう話をつくったのではないかと疑えば疑えぬことはない。」と、話は眉唾物ではないかと一蹴している。
 いずれにせよ、このころから坂本龍馬は人々の口の端に上るようになったようである。そういう意味では、宮中にいた土佐人たちのねらいは当ったわけである。

 さらに大正時代に入ると、大正デモクラシーの精神から、例の「船中八策」が立憲主義の先駆として学問的に評価されるようになると、飛鳥井はいう。
「ここにデモクラシー歴史観、平和革命論者龍馬の像が成立した。このイメージは学問的スタイルをとっていたし、この過程で、龍馬の思考を伝えるとされる「藩論」というパンフレットが発見されたこともあって、好くも悪しくも、戦後まで引きつがれてきているのである。」


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Posted by 南宜堂 at 07:33│Comments(0)幕末・維新
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