2010年06月25日
龍馬と瑞山の交遊
坂本龍馬と武市半平太の交遊がはじまったのは、安政3年の龍馬2度目の江戸滞在の時であったという。そのきっかけは、龍馬の従兄弟である山本琢馬を通してであった。山本は江戸で半平太と同じ桃井道場で修業をしていた。
山本琢馬といえば、ドラマでも取り上げられていたが、拾った懐中時計を質入れして問題を起こた山本である。このとき龍馬と半平太は協力して山本を逃がしている。
安政4年には龍馬と半平太は、土佐藩の長屋を出て、共同で生活するほどの親しい交わりをしている。謹厳実直な半平太と自由奔放な龍馬がどんな共同生活をしていたのか。はたして喧嘩もせずにうまくやっていけたのか。お互いが欠けている部分を認めあうというような度量がこの二人には備わっていたのであろう。
龍馬がある時期までは土佐勤王党の主力メンバーとして、半平太に協力して活動していたことを思えば、そのことはより鮮明に理解できる。ドラマでいうような「幼なじみだから」というような友情では弱すぎる気がするのだ。
幕末における江戸での剣術修業がもつ意味について、飛鳥井雅道氏は次のように記している。
「幕末の剣術道場は、弘化・嘉永年間から急速に隆盛にむかっていったが、これは単に黒船渡来のうわさ、その実現で剣術熱が拡がっただけではなく、幕末には道場がひとつのコミュニケーションの中心になる役割をもってきはじめていたからだった。龍馬も瑞山も、ここではじめて本格的に他国人たちと話しあう機会がつかめたのである。」
江戸での剣術修業は、藩という枠を越えて積極的に他国の若者たちとの交流の場となった。そればかりではなく、同国人である龍馬や半平太が親しくなる機会をつくったのも江戸遊学であるというのも皮肉な話である。
ただし、この江戸の道場にもそれぞれ派閥があった。幕末の剣術道場で有名なのは、神田お玉が池の千葉周作の玄武館、九段の斎藤弥九郎の練兵館、そして半平太の通った京橋浅蜊河岸の士学館で江戸の三大道場と呼ばれていた。龍馬が学んだのは千葉周作の実弟千葉定吉の道場である。
千葉周作は水戸の弘道館の師範を務めていた関係で、玄武館には水戸人が多かった。後に水戸藩士が高知藩境に来て龍馬を呼び出したというのも、この関係があってのことかもしれない。
練兵館は長州人が多かった。桂小五郎や高杉晋作はここで修業している。士学館は奉行所の与力や同心が主であった。
余談になるが、この頃近藤勇も江戸で道場を開いていた。試衛館である。しかし、三大道場に較べればだいぶ格下で、町人や多摩の豪農層が主な弟子であったようである。
山本琢馬といえば、ドラマでも取り上げられていたが、拾った懐中時計を質入れして問題を起こた山本である。このとき龍馬と半平太は協力して山本を逃がしている。
安政4年には龍馬と半平太は、土佐藩の長屋を出て、共同で生活するほどの親しい交わりをしている。謹厳実直な半平太と自由奔放な龍馬がどんな共同生活をしていたのか。はたして喧嘩もせずにうまくやっていけたのか。お互いが欠けている部分を認めあうというような度量がこの二人には備わっていたのであろう。
龍馬がある時期までは土佐勤王党の主力メンバーとして、半平太に協力して活動していたことを思えば、そのことはより鮮明に理解できる。ドラマでいうような「幼なじみだから」というような友情では弱すぎる気がするのだ。
幕末における江戸での剣術修業がもつ意味について、飛鳥井雅道氏は次のように記している。
「幕末の剣術道場は、弘化・嘉永年間から急速に隆盛にむかっていったが、これは単に黒船渡来のうわさ、その実現で剣術熱が拡がっただけではなく、幕末には道場がひとつのコミュニケーションの中心になる役割をもってきはじめていたからだった。龍馬も瑞山も、ここではじめて本格的に他国人たちと話しあう機会がつかめたのである。」
江戸での剣術修業は、藩という枠を越えて積極的に他国の若者たちとの交流の場となった。そればかりではなく、同国人である龍馬や半平太が親しくなる機会をつくったのも江戸遊学であるというのも皮肉な話である。
ただし、この江戸の道場にもそれぞれ派閥があった。幕末の剣術道場で有名なのは、神田お玉が池の千葉周作の玄武館、九段の斎藤弥九郎の練兵館、そして半平太の通った京橋浅蜊河岸の士学館で江戸の三大道場と呼ばれていた。龍馬が学んだのは千葉周作の実弟千葉定吉の道場である。
千葉周作は水戸の弘道館の師範を務めていた関係で、玄武館には水戸人が多かった。後に水戸藩士が高知藩境に来て龍馬を呼び出したというのも、この関係があってのことかもしれない。
練兵館は長州人が多かった。桂小五郎や高杉晋作はここで修業している。士学館は奉行所の与力や同心が主であった。
余談になるが、この頃近藤勇も江戸で道場を開いていた。試衛館である。しかし、三大道場に較べればだいぶ格下で、町人や多摩の豪農層が主な弟子であったようである。
Posted by 南宜堂 at 10:33│Comments(0)
│幕末・維新
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