2010年06月27日

土佐勤王党

 文久元年8月、武市瑞山は江戸で土佐勤王党を結成した。
 土佐勤王党の盟約書(盟曰)には次のような文言がある。「錦旗若し一とたび揚らバ水火をも踏まむと、ここに神明に誓い上は帝の大御心をやすめ奉り、我が老公の御志を継ぎ、下は万民の患をも払わんとす」
 そこには尊王の意志だけではなく、「老公(山内容堂)の御志を継ぎ」とか「万民の患をも払わん」といった政治的なスローガンも含まれていたのである。
 加盟したもののほとんどが下士であるということからもわかるように、そこには彼らの身分差別への抵抗の意志も秘められていたと取るべきだろう。坂本龍馬もこれに血盟している。
 この盟曰を起草したのは大石弥太郎であるといわれているが、その内容を見ていくと、多分に瑞山の思想を反映したものであった。例えば次のくだりなどは国学を深く学んだ瑞山らしい表現と見て取れる。
「堂々たる神州戎狄の辱しめをうけ、古より伝はれる大和魂も、今は既に絶えなんと、帝は深く嘆き玉ふ。しかれども久しく治まれる御代の因循委惰といふ俗に習ひて、独りも此心を振ひ挙て皇国の禍を攘ふ人なし。」
 さらにはこの後に、容堂がこの国の危機を憂い、そのことを有司のものたちに訴えるも、却ってそのことで謹慎させられてしまった。「君辱かしめを受る時は臣死すと。」と続くのである。
 そこには幕府についての言及がない。そればかりか、容堂に謹慎を命じたことへの批判さえも見られるのだ。さらには幕府の顔色を伺っている参政吉田東洋に対しての批判をも滲ませている。
 瑞山の持論は、土佐一藩が勤王となって、藩主を擁して上洛することであった。そのためには、瑞山ら勤王党の動きを抑えようとする吉田の存在は目障りなのである。


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Posted by 南宜堂 at 23:00│Comments(0)幕末・維新
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