2012年02月06日
川中島藩主・松平忠輝
以前に書いたような事情があって、信州松代藩の歴史を調べているのだが、戦国時代から江戸時代初期にかけて、この辺りの支配者はめまぐるしく代わっている。
長野市のある善光寺平のことを、川中島平ともいう。本来の川中島というのは、文字通り千曲川と犀川に挟まれた地帯を指すのであって、有名な川中島の戦いはこのあたりで行われた。
しかし、郷土史家の故小林計一郎さんは、川中島というのはもっと広い範囲を指していたのだと言っている。川中島四郡という言い方がそれで、水内・高井・更級・埴科を合わせると、ほぼ北信濃全域が含まれる。
この川中島地方には、小さな豪族が割拠していた。1400年に起きた大塔合戦で、国人層と呼ばれる地元の豪族連合が守護である小笠原氏を破ってから力を蓄えてきたのである。しかし、この豪族たちは甲斐の武田信玄の侵攻により、次々とその軍門に下り、信玄の支配下におかれることになった。上杉謙信との川中島の戦いのあとも信玄の勢力下にあることには変わりなかった。
武田氏の滅亡後は、織田信長がここを支配した。信長が本能寺で明智光秀に討たれると、春日山の上杉景勝がここに進出してきた。
江戸時代に入ると、徳川家康の六男松平忠輝が藩主となった。さらには上田から真田信之が入封するのである。
戦国時代のスターたちのオンパレードのような場所が川中島というわけだが、ここで実力者たちが鎬を削っていたのは、地元に有力な戦国大名がいなかったということもあるが、何よりもここは北陸と関東を結ぶ、戦略上の要地であったことによるようだ。
今、川中島藩の藩主であり、海津城の城主であった松平忠輝のことを書いた隆慶一郎の歴史小説『捨て童子松平忠輝』を読んでいる。家康の六男に生まれながらも家康に疎まれ下野栃木藩主皆川広照に育てられた。しかし長ずるに従ってその聡明さが今度は家康の認めるところとなり、川中島12万石の領主となり、次いで越後高田藩63万石を与えられ、川中島と併せて75万石の大大名となった。
しかし、元和2年には改易を命じられ、伊勢・飛騨・諏訪と流浪の日々を送り、天和3年に諏訪高島城で死去した。92歳と長命であった。
忠輝が川中島藩主となったのは、わずか11歳の時で、付家老として実力を発揮したのは大久保長安と海津城代の花井吉成であった。
長安は家康の信任が厚く、天下の総代官と呼ばれるほどの実力者であった。佐渡金山や石見銀山の開発を行い、全国の街道の整備などの仕事もした。
隆慶一郎の小説では、キリシタンと結び、忠輝を立てて、幕府の転覆を企てる人物として描かれている。
花井吉成は、忠輝の義兄で、彼が最も信頼を寄せる人物であった。忠輝が幼少であったため、海津城で川中島藩の藩政をとりしきった。
裾花川の流れを変えて、新田の開発につとめた人として地元では尊敬されている。鬼無里を源流とする裾花川は、現在の長野県庁の北側で流れを東にとり、昭和通りのあたりを流れて千曲川に合流していた。
この流れを現在のように丹波島のあたりで犀川に合流するようにしたのが花井吉成であると言われているのである。

長野市のある善光寺平のことを、川中島平ともいう。本来の川中島というのは、文字通り千曲川と犀川に挟まれた地帯を指すのであって、有名な川中島の戦いはこのあたりで行われた。
しかし、郷土史家の故小林計一郎さんは、川中島というのはもっと広い範囲を指していたのだと言っている。川中島四郡という言い方がそれで、水内・高井・更級・埴科を合わせると、ほぼ北信濃全域が含まれる。
この川中島地方には、小さな豪族が割拠していた。1400年に起きた大塔合戦で、国人層と呼ばれる地元の豪族連合が守護である小笠原氏を破ってから力を蓄えてきたのである。しかし、この豪族たちは甲斐の武田信玄の侵攻により、次々とその軍門に下り、信玄の支配下におかれることになった。上杉謙信との川中島の戦いのあとも信玄の勢力下にあることには変わりなかった。
武田氏の滅亡後は、織田信長がここを支配した。信長が本能寺で明智光秀に討たれると、春日山の上杉景勝がここに進出してきた。
江戸時代に入ると、徳川家康の六男松平忠輝が藩主となった。さらには上田から真田信之が入封するのである。
戦国時代のスターたちのオンパレードのような場所が川中島というわけだが、ここで実力者たちが鎬を削っていたのは、地元に有力な戦国大名がいなかったということもあるが、何よりもここは北陸と関東を結ぶ、戦略上の要地であったことによるようだ。
今、川中島藩の藩主であり、海津城の城主であった松平忠輝のことを書いた隆慶一郎の歴史小説『捨て童子松平忠輝』を読んでいる。家康の六男に生まれながらも家康に疎まれ下野栃木藩主皆川広照に育てられた。しかし長ずるに従ってその聡明さが今度は家康の認めるところとなり、川中島12万石の領主となり、次いで越後高田藩63万石を与えられ、川中島と併せて75万石の大大名となった。
しかし、元和2年には改易を命じられ、伊勢・飛騨・諏訪と流浪の日々を送り、天和3年に諏訪高島城で死去した。92歳と長命であった。
忠輝が川中島藩主となったのは、わずか11歳の時で、付家老として実力を発揮したのは大久保長安と海津城代の花井吉成であった。
長安は家康の信任が厚く、天下の総代官と呼ばれるほどの実力者であった。佐渡金山や石見銀山の開発を行い、全国の街道の整備などの仕事もした。
隆慶一郎の小説では、キリシタンと結び、忠輝を立てて、幕府の転覆を企てる人物として描かれている。
花井吉成は、忠輝の義兄で、彼が最も信頼を寄せる人物であった。忠輝が幼少であったため、海津城で川中島藩の藩政をとりしきった。
裾花川の流れを変えて、新田の開発につとめた人として地元では尊敬されている。鬼無里を源流とする裾花川は、現在の長野県庁の北側で流れを東にとり、昭和通りのあたりを流れて千曲川に合流していた。
この流れを現在のように丹波島のあたりで犀川に合流するようにしたのが花井吉成であると言われているのである。

Posted by 南宜堂 at 22:48│Comments(2)
│松代
この記事へのコメント
Posted by ムギチョコ at 2012年02月07日 11:27
ムギチョコ様
花井の時代であったかは異論があるようですが、裾花川の流れが変わったのは確かなようです。
これによって長野駅あたりのいわゆる栗田田んぼの開発がすすんだようです。
花井の時代であったかは異論があるようですが、裾花川の流れが変わったのは確かなようです。
これによって長野駅あたりのいわゆる栗田田んぼの開発がすすんだようです。
Posted by 南宜堂
at 2012年02月07日 12:19

それ以前に、裾花川が昔は昭和通りを流れていたと言うのも初めて知りました。
そう言われてみると、県庁の西、白岩前の土手が整備されてるあたりや水神様がある辺りで南にカーブしていく様は確かに人工的な感じがします。