2013年01月26日

真田信之 6

 永禄四年(一五六一)八月、春日山を出発した上杉軍は、十四日に海津城西南にある妻女(さいじょ)山に陣を取った。山上からは海津城を望むことができる。この知らせは十六日には甲府の信玄のもとに届いた。信玄は急ぎ出陣の支度をさせ、十八日大軍を率いて甲府を立ち、二十四日に川中島に到着した。妻女山近くの雨宮(あめのみや)渡に陣を取った後、二十九日に海津城に入った。
 九月九日、海津城での軍議で、信玄は翌日未明に妻女山の上杉軍に総攻撃をかけることを決めた。この時、山本勘助の進言を入れて取ったのが「啄木鳥(きつつき)の戦法」であった。すなわち、武田の軍勢を二手に分け、一万二千の軍勢で早朝に妻女山を攻撃する。上杉軍はこの攻撃で、山を下り退くだろうから、これを残り八千で待ち受け挟み撃ちにしようというものである。
 しかし、上杉軍は海津城から上る炊飯の煙を見て、翌日の攻撃を悟る。謙信は夜半秘かに山を下り、雨宮渡を渡って対岸に出た。この日、川中島は一面の霧で一寸先も見えない。やがて日が昇り霧が晴れてくると、信玄の本陣の間近に上杉の大軍が迫っていた。出会い頭の衝突のようにして両軍の戦いがはじまった。戦いは最初は上杉軍が有利に展開したが、妻女山攻撃の軍勢が加わると形勢は逆転した。
 戦いは夕刻まで及んだ。両軍に大きな被害が出たものの、最終的な雌雄をするまでには至らなかった。武田軍はこの戦いで、信玄の弟である典厩信繁(てんきゅうのぶしげ)、両角豊後守、山本勘助入道道鬼、初鹿野源五郎らの武将が戦死した。
 この戦いのさなか、上杉謙信が馬で信玄の本陣に襲いかかり、信玄に斬りつけたとの話が『甲陽軍鑑』にはあるが、真偽のほどはわからない。
川中島古戦場真田信之 6


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Posted by 南宜堂 at 12:14│Comments(0)真田十勇士

 
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