2013年01月28日

真田信之 7

 つい最近まで長野県に小県郡真田町という自治体があった。真田町は二〇〇六年平成の大合併により隣接する上田市の一部となり、現在は上田市真田という地籍となっている。その旧真田町もそれほど古い歴史があるわけではない。一九五八年小県郡長村、同傍陽村、同本原村が合併してできた町である。町名を決めるにあたって、公募によって真田町と決まった。有名な真田氏に因んでと言われるが定かではない。その旧長村に真田という地区があって、ここは一八七六年までは真田村であった。
 真田は山国信州に多くあるごく普通の山村である。見上げれば四阿山・烏帽子岳といった二千メートル級の山々が連なり、そんな山に囲まれた狭い盆地が真田の里である。
 かつては小県の中心である上田市とここ真田町の間を小さな私鉄が結んでいた。上田交通真田・傍陽線である。一九七二年に廃線となったのだが、終点の真田駅は山家神社の近く、現在は農協の支所となっているあたりにあった。菅平高原への誘客の手段にという意図もあったのだろうが、当時の上田交通社長小島大治郎は「山に植林したつもりで」建設を決意したのだという。
 この旧真田町の辺りが真田氏発祥の地である。そのはじめは、戦国時代各地に割拠する小豪族のひとつであった。多くの史料から勘案するに、真田郷は中世から有力な豪族が支配しており、それは真田氏を名乗っていたということが今ではわかっている。
 例えば応永七年(一四〇〇)の大塔合戦には、実田(真田)・横尾・曲尾といった武士が旧真田町地区から参戦していることが『大塔物語』に記されており、永享十年(一四三八)の結城合戦には真田源太・源五・源六と名乗る武士が出陣したことが『真田町誌』にある。真田氏中興の祖とされる幸隆が、この中世から続く真田氏の末裔であると考えるのは自然だろう。
 真田氏が大きくなるのは幸隆の時代であり、武田氏に臣従し武田氏とともに領土を拡大していったからだ。
 そんな中世の真田氏の館跡ではないかとされるのが、日向畑遺跡である。真田郷から菅平・鳥居峠方面に向かう国道一四四号線は途中で角間方面に向かう道と分かれる。ここに松尾古城と呼ばれる中世の城跡があるが、日向畑遺跡はそのふもとの角間集落の入口近く、小高い段丘の上にある。
 昭和四十六年から四十七年にかけて当時の真田町教育委員会により発掘調査が行われ、石造五輪塔や石造宝篋印塔、鉄器・土器・古銭が発掘された。年代的には中世のものとされ、幸隆よりだいぶ前の時代のものと推定されている。なお、遺跡の中の館跡とされる場所の一画には安智羅(あんちら)明神と呼ばれる木像が祀られている。この木像、幸隆十五歳の時のものというが遺跡の年代とは合わない。。
 戦時には松尾古城に籠もった中世の真田氏は、平時は日向畑のあたりで生活していたものと思われる。真田氏の発祥の地真田の里にはこの松尾古城ほか多くの城跡があるのだが、中世の城というのは戦いのためのものであったから、それだけ領地を巡る争いが激しかったということであろう。
真田信之 7


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Posted by 南宜堂 at 10:04│Comments(0)真田十勇士

 
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